スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポに参加した感想体験談|お坊さんに導いて頂く

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



本日、平成29年12月9日(土)、8日の成道会の後日に、西本願寺にて「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」という行事に参加して参りました。


この催しでは、お坊さんに伺いたいこともありまして、、また、Twitterで御縁賜りました真宗のお坊さんにも、挨拶申し上げたくもあり、朝から参加して参りまして。

「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」では、長時間お坊さんに話を聞いて頂き、人形説きという説法も聴聞する事ができまして、有り難き御縁となりました。



今回は、このような御縁となりました「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」についての、参加した体験談といいますか、感想文的な話です。



そして、毎度の事ながら、注意事項をば。



いつもの事ですが、今回、お坊さんに聞いて頂いた話や、お坊さん達との会話の中で、プライベートなことも話しをしております。

ゆえに、そのようなプライベートな部分、他言無用である事柄については、一切ここではお伝え致しません。

オフレコ的な部分については、一切言語化致しませんから、そこはご注意申し上げると共に、ご了承頂ければと存じます。



ただ、それほどまでに、今回は深い部分まで、深掘りした事柄を打ち明ける、いや、はき出すと言った方がより的確でしょうか、それ程話を聞いて頂きました。

私の苦悩の吐露、長時間の話におつきあい下さいました、ゆるく話す会の僧侶の方々に、ここで厚く御礼申し上げます。

本当に、有り難う御座います。合掌、南無阿弥陀仏、礼拝。

スポンサーリンク

「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」の概要と私の足取り

今回参加させて頂く御縁が御座いました、「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」という西本願寺で開かれた催し。

まず、簡単にこの催しの概要と、私の足取りだけさらりとお伝えしておきましょう。



「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」と打ち込んでおりますが、正式・正確な名称については、実は把握しておりません。

パンフレットには、「ごえんさんエキスポ」と書いてあり、ウェブサイトには「スクールナーランダ特別編」とあります。

併せてどう読めば良いのか分かりかねまして、私は勝手に合わせて「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」と表記することに致しました。



この「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」は、2017年年12月9日(土)と10日(日)に開催されております。

私は、10日は釈徹宗さんと小出遥子さんの対談を聴聞すべく、大阪に出張りますから、土曜日だけの参加です。



「スクールナーランダ、ごえんさんエキスポ」の開催趣旨は、若手僧侶との交流であったり、仏教にまつわるワークショップをする事で、仏教に触れる事が出来る催しだそうな。

会場には、40以上のブースが立ち並んでおりまして、食事も販売しており、食事がとれる場所も御座います。

食事も出来て、催しもある「安穏殿」という場所もありますし。



私は、この安穏殿で司会を担当されている和上さんに、挨拶申し上げたかったのですが、安穏殿での最初の催しが少し待たないと始まらなかったために、最初に「坊主カフェコーナー」へ。

「坊主カフェコーナー」では、お坊さんと話が出来るという場所です。

ここも、私が行きたかった場所で、私の最近の苦悩について、話してみようと思うておりまして、最初に向かいました。



私の足取りは、午前中、長時間おつきあい頂いた後、安穏殿へ行って、司会のお坊さんに挨拶申し上げ、少しブースを回ってから、再び人形説きを聴聞するために、安穏殿へ。

人形説きでは、僧侶が人形劇にてお念仏の教えや他力の教えを説いて下さいました。

私、真宗の説法で、節談説教を聴聞したことはありますが、一人人形説きは初めてでして、新鮮でした。



人形説きが終わった後、御文章の拝読も終わり、一同合掌してお念仏申し上げるとき、子供達もきちんと正座して「なんまんだぶなんまんだぶ」と口称念仏していた姿が印象的でした。

ああ、この子達にも、お念仏が届いておるんだなあ、と、そんな事を思いながら、私も合掌、南無阿弥陀仏、礼拝。



その後、再度司会のお坊さんに挨拶申し上げて、再び坊主カフェコーナーへ。

また長時間、私の苦悩を話し、お導き頂き、その後は西本願寺境内の案内を頂いて、この日は帰りました。

スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポの坊主カフェにてお導き頂きました事

今回の「スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポ」において、私は学び実践している事で、苦悩することがあり、それを話してみようと思いておりましたところ、非常に有り難き御縁と相成りました。



と言いますのも。



私は、以前からプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会に参加したり、禅カフェに参加したり、別時念仏会に参加したりと、仏縁を賜る機会が御座いまして。

そして、お寺でだけではなく、自宅・自室でも、坐禅や手動瞑想、外では歩行名僧や念仏行脚もしております。



しかし、行学二道をする中で、ある教え、ある実践と出会い、その時にまざまざの、己の悪人性が照らし出され、ごまかしきれぬ影を目の当たりにしまして。

その時に、仏教のヤバさと言いますか、怖さを垣間見たと言いますか。



とにかく、それによって苦しむ事が御座いまして。



いや、前からあるにはあったのですが、如何に分かったふりをして全然何も分かっておらんかったか、ということなど、諸々さらされて打ちのめされた事がありましてね。

その事を、今回のスクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポ内の「坊主カフェ」で、話を聞いて下すったお坊さん達に、赤裸々に打ち明けた次第で御座います。

スポンサーリンク

仏教を学び実践する中での苦悩:慈愍所縁・慈愍観で突きつけられた私の煩悩

私は、現在は定期的に仏教の歴史や教義・教学的な事柄を、お寺に通って学んでおります。

また、その時に、読経や坐禅も教わっておるのですが。



先日、その時に「慈愍所縁」という事柄を教わりまして。

慈愍所縁とは、親しい人々、敵対している人々、どちらともいえない人々、これらの所縁について、安楽を願うというものだそうです。

「だそうです」としか言えない頼りないのは、私も何度か頂いた資料を読み返して実践してはおりますが、なかなか至らず、私の能力の無さによるものです。

現段階においては、慈悲の瞑想に通じる仏道修行であるのかな、という頂き方をしております。



それで、この慈愍所縁をしている時。



「親しい人々」の安楽を願うのはいけたのですがね。

「敵対している人」であったり、私が憎んでいる人や嫌っている人に対しても、安楽を願うというところで、私が如何に悪人であるか、という事を思い知らされることとなりまして。



敵対している人や嫌いな人の安楽を願う時、敵対している人や嫌っている人の事が浮かんできましてね。

現在、幸いにも敵対している人はいませんが、嫌っている人、過去に嫌っていた人の事柄が、頭に浮かんできまして。

そして、その人たちの安楽を願う・・・といくところが、私は次のような念を継いだのです。



「私は、これだけの人達を嫌い憎んでいたとは。」

「これだけの数の人を、忌み嫌い憎むというのは、まさに私の修羅の性質(さが)であり、瞋恚(しんに)という煩悩が熾烈だからではなかろうか。」



このように、己の怒りや憎しみの心、瞋恚(しんに)という三毒の煩悩の一つが熾烈であるという事が照らされ、そこを見せつけられる事となったのです。

私はなんて罪悪深重煩悩熾盛の凡夫なる悪人であろうか、と、人を恨むこと多き姿を、まざまざと見せつけられる事となりまして。



また、「100分de名著:歎異抄」が再放送されておりまして、テキストを開きながら復習しておったのですが。

その時に、「雑毒の善」という、自分がやっている善行は、実は自分都合が混じっていて、どこまでも自己都合ではなかろうか、という話がありましてね。

それが、ザクっと突き刺さってくるようになり、何かこう、「自己肯定ってなんだろう・・・」という、ようわからん状態に陥ったのです。



「雑毒の善」の教えや、法然上人の「知者の振る舞いをせずして」等、私はこの寺院(ブログ)でも、大切な教えであると頂いている、と、たびたび申し上げております。

これが、暴走しないためのブレーキとなる有り難き教えであると、今も大切に思うておるのは真の事であります。



ありますが、なんといいますか、だんだんと、これが至る所で自身の所作や意業に突き刺さるようになってきまして。



そして、「慈愍所縁」を教わり実践した時に、慈悲の話が無慈悲に私に突き刺さる、という事を自覚した次第で御座います。



ある人から「仏教を学び行じると、苦しくなる」という話を頂いた事があるのですが、「ああ、今の私の状態が、あまさにそれであろうか。」と、思うに至りました。



そのような苦悩が悶々とするようになり、そのような最中、お坊さんに打ち明けられる機会となるスクールナーランダ・ごえんさんエキスポの御縁がありまして、赴いたわけであります。

教え導いて頂けた有り難き御縁:「動的な中道:揺らぎ」を改めて教わる

上述したような苦悩について、お坊さん達は長時間私の話を丁寧に聞き取って下さり、導いて下さいました。



(その際に話して頂いた、お互いのプライベートな部分については、ここではお伝え致しません事は、再度注意申し上げておきます。)



お坊さん達は、ご自身の体験を通して、私にも通じる話をして導いて下さったり、具体的な坐禅の手順等も教えて下さいまして。

その中で、改めて「中道」の大切さ、肝要なことを教えて頂きました。

と同時に、私は「中道は動的な事柄として頂いている、揺らぎを大切にして生きる」と申し上げておきながら、それが全然出来ておらず、わかっておらんかったなあ、という事も思い知りました。



以前、私はアチャン・ニャーナラトー師の海洋方瞑想リトリートにて、動的な中道や揺らぎの大切さを頂いて参りました、と申し上げております。



参照記事:「ニャーナラトー師の瞑想会in京都(通い方リトリート1日目)|執着と中道について更に学ぶ」



しかし、その揺らぎ方や動的な中道が、何と言いますか、どうもデジタル的な在り方(0か1か)であったなあ、と、お坊さんに導いて頂いて、気づくことが出来まして。



どういうことかと申しますと。



私は、俗世の「はっきりと区別すること、分別すること」や、「ゼロかイチか」という思考パターンが入っておりまして。

現在、プログラミング(言語はRubyとRuby on Rails)を学び実践しておりますから、なおのこと、そういう思考パターンに染まりつつあったのやも知れません。



そのこともあってか、私の動的な中道を歩まんとするその歩みは、カクカクしていると言いますか、さくっさくっさく、という動き方であったのだなあ、と、思い知りましてね。

つまり「揺らぐ」のではなく、その動きはいびつで、カクッカクっとした、なんともぎこちない動きであったのであるなあ、と、気づくに至りまして。



そこから、私の今までの動的な中道と、揺らぐ中道の違いについて、お坊さんは声明を例にとって説いて下さいました。



私の動的な中道は、「ハッハッハ」という、途切れ途切れの、スタッカート的な途切れた移動の仕方です。

これだと断絶されてしまっており、音程の移動はしていても「揺らぎ」とは言えません。

一方、「揺らぐ中道」は、「ハー↑ーハー↓-」というように、音程は移動しているけれども、つながりを持った揺らぎであります。



この違いに気づかせて頂き、導いて頂けたことは、僧侶と話す会にて頂きました、有り難き光明に御座います。



これらの事の他にも、色々とお導き頂きまして、仏教を学び実践して苦悩していた事に、光をともして頂いた事を感じたことに御座います。

善友・善知識の有り難さ:お坊さんに直接仏教の相談が出来る事は有り難し

今回は、「スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポ」に参加した感想体験談と題しまして、お坊さんにお導き頂いた話を致しました。



「スクール・ナーランダ、ごえんさんエキスポ」にて、お坊さん達に苦悩を吐露し、そこでお智慧とお導きを頂けましたこと、誠に感謝申し上げる次第で御座います。

また、やはり独りよがりでは無く、一人で悶々としているのではなく、きちんと相談することの大切さを、身をもって学びました。



プラユキ・ナラテボーさんは「善友」の大切さを教えて下さいます。

私が先日参加させて頂いた瞑想会も、まさにテーマ・主題が「善友」でありました。

また、仏陀の話にも弟子の阿難さんに「善友、善き仲間とともにあるということは、聖なる道なかばにあるのではなく、まったくその全てなのである。」とあります。



私にとって、お坊さん達は仏教を先に学び実践されている先輩方で、善知識なる方々です。

善知識なるお坊さん達に、私が道を外しそうになったり、苦悩について話を聞いて導いて下さいましたこと、真に有り難し。



私は、仏教を行ずるがゆえの苦に悶えながら、瞑想難民的に陥いっていた事でありましょう。

そして、今回、この苦悩を観なかったことにして誤魔化して、お坊さんにきちんとお伝えすることが無ければ、瞑想難民になっていたり、酷いことになっていたやもしれません。



苦や怖さに飲み込まれて動けなくなる前に、お導き頂けましたこと、感謝申し上げるばかりに御座ります。



合掌、南無阿弥陀仏、礼拝

スポンサーリンク