「自分は何何だから」に観る無明|言い訳に使うという愚行ではなく調える智慧とする方法

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは、「自分は何何だから」という言い方で、自己紹介をした経験をお持ちでしょうか。
また、他者から「ほら、俺って何何じゃん?」とか「私って何何だから」「自分って何何だよね、だからうんたらかんたら」と、言い訳がましい使い方をされた経験がある人は、御座いませんかな。



「自分は何何だから」という言い回し。

この言い回しを聞く度に、私は「自身をきちんと客観視しての自己分析からなる正確な自己紹介であろうか。」と、問いが浮かんでくるのですがね。

まあ、こういう事がいちいち浮かんでくる私は、性格が悪くて素直では無い、嫌な奴なのかもしれませんが。

と、こういう事ですよ、「私、修羅観音は性格が悪いし素直じゃ無いから」と、言われている場面を想像してみて頂ければと存じます。



今回は、そういう話です。



この「自分は何何だから」という、あたかも自己分析をして自己紹介しているかのような、あの言い回し。

私は、ここにある種の傲慢や無明、その背景に、こういう無自覚な煩悩があるのではないか、とも観ておりまして。



今回は、その事について話を展開してみると共に、「自分は何何だから」という在り方を、愚行ではなく己を調える智慧として使う方法を、模索してみることと致します。

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「自分は何何だから」という言い回し:八つ橋工場勤務時代の私の体験

「自分は何何だから」と、いきなりなんの自己紹介なんだ、というような言い回しをする人も結構いらっしゃるであろう娑婆世界。



私は、この言い回しに、何となく妙な感じと言いますか、違和感を抱いておりました。

実際に、これを攻撃的に使われる事もありまして、しかしその当時は、上手く言語化出来ませんでして、やっと何とか一定の言語化が出来るまでに至りました。



この言い回しをされて、違和感を覚えた出来事は、かれこれ私が大学を卒業してから某八つ橋工場勤務時代まで遡ります。

どの八つ橋工場かと申しますと、賞味期限切れの食材を使って問題を起こした企業です。

その時期には、私はもう退職して別の働き口で働いていましたけれどもね。



当時、私が勤めていた工場には、パートのおばちゃん達が沢山いらっしゃいましてね。

私は、比較的おばさま連中には可愛がって貰ったものではありますが、中には傲慢で口うるさい、まさに「いけずな京都のおばはん」的な輩も、ちらほらとおるもんでして。



で、この中でも年季の入った、勤続年数が多くて大御所的なおばちゃんと、その友人おばちゃんがいたのですが、まあ、品性に欠ける在り方でありまして。

もちろん、仕事上で私が失敗した時、「何やってんの、わーわーわー!」と言う場合は、私も素直に聞き入れましたよ、失敗した私の責務ですし、失敗の業は私が背負うべきですから。

しかしですね、そうではない時も、口うるさく言われたものです。
(その頃に、仏教・仏法を頂いていたならば、私はどういう対応をしていたのだろう、と思う今日この頃。)



そして、そういう時に、決まって言われるこの台詞。

「おばさんは、うるさいもんや。」



今の私なら、まあ、仏法を頂き、仏陀が仰るように、罵詈雑言や意味不明な言い訳めいた悪口(あっく)や妄語の類いは、受け取らないのですがね。

当時は、むっかー!としながらも、「自分に悪いところがあるから、やんやと言われるのだ」と言う性分ゆえに、全て受け止めていたものです。

ただし、心の中では、受け止めながらも、「自分は(何何)だから」の部分に対しては、「おばちゃんはうるさいもんって、知らんがな。と、思うておったのですがね。



あ、某八つ橋工場の名誉のために、フォローを入れておきまする。



こういう「餓鬼畜生おばはん」は、ごくごく一部、希少的な割合でして、大半のおばさま達には可愛がって頂いておりましたよ、私。

それに、凄く穏やかで、でも仕事はパワフルで頭もよく、「この人、幹部にしないと勿体無い」と思うくらいのおばさまもいらっしゃいましたし。

仕事の効率を上げ、尚且つ失敗しない仕組みややり方を独自に編み出し、その成果を会社の月間新聞のようなもので伝えられていましたからね。

その人の事は、私も尊敬しておりました。



某八つ橋工場の、おばちゃん全てが酷いわけではありません。

それこそ「人による:十人十色:千差万別」です。

「自分は何何だから」と言われたら、こう切り返したくなる

某八つ橋工場でぶつけられてきた「自分は何何だから」という、この言い回し。

某八つ橋工場以外のところでも、私は「自分は何何だから」という、自己規定的自己紹介を、されてきたものです。



私は、この事に違和感を抱いておりまして。



私が体験した具体的事例では、「おばさんは、うるさいもんや。」という言い回しですが、色々なバージョンがありますね。

例えば、よくありがちなのが、この辺りでしょうか。



「俺って口が悪いから。」

「私って褒められて伸びるタイプだから。」

「僕は辛口ですからねえ。」



あなた自身、このような言い回しをしていませんかな。

もしくは、あなたが誰かに、こういう自己紹介を受けた事はありませんかね。



例えば、あなたに向かって「お前って、あほかいな。」と言われて、流石にあなたが怒りをみせると、「いや、ほら、俺って口が悪いからさ。」と、言い訳がましく「自分は何何だから」を持ち出されたり。

仕事なり勉強において、成果や成績をけなしておいて、「ほら、俺って辛口だから、厳しい評価なんだよ。」とか。

それで、このような仕打ちを受けた時、私も思うた事でありますが、あなたも次のような一言を言いたくなった事って、御座いませんかな。



「知らんがな。」



まさに、「知らんがな」案件。



漫画に詳しくて、煽り画像をよくご存じの方ならば、次の一言を、本当にぶつけたことがある人もいらっしゃるやもしれませんね。

あ、先に断っておきますが、私は「お前呼ばわり」をしないように戒めております。



参照記事:「「お前呼ばわり」や「あんた呼ばわり」する人とは、なるべくお付き合いしたくない」



ゆえに、あくまで、これは漫画や煽り画像の台詞として、お伝えするだけですからね、そこのところ、ご理解頂ければと存じます。



話が逸れました、戻しましょう。



「俺って口が悪いから」といって、あなたに悪口を言ったりする輩に対する返しの台詞。



「お前がそういうならそうなんだろう、お前んなかではな。」



おたくがそう思うならおたくの中ではそうなんでしょうが、わたしゃにとっちゃ知らんがなってなもんどすえ。



大体にして、口が悪いという自覚があるならば、直せば宜しい、調えはったらよろしゅおす。

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「自分は何何だから」に観る無明について:確かに必要な事ではあるけれど・・・

相手に悪口を言って、「俺、口が悪いからさ。」とか、口うるさく言うてから「おばさんはうるさいもんや。」といって、防御線を貼る愚行。

「自分は何何だから」は、場合によって「知らんがな」と、一喝してやりたくなることも御座います。



ただ、もちろん、全てが全てそうというわけではありません。

ここは、状況や文脈によって、言い訳になるか、必要な事実申告であるかの違いはある、という注意について申し上げておきます。



「自分は何何だから」と、事前に報告しなければならないことがある、そういう事情がある場面も存在する事は、否定致しませんし、否定してはならんでしょう。

例えば、身体に疾患を持っている人が、何かの事柄を拒否する際には、事前に「私は、何何という症状がある人ですから」と、申告しておかなければ、重大な事故に繋がりかねません。



もっと具体的な例を挙げますと。



特定の食材を食べると、アレルギー反応が出てしまう、という場合には、「私は、アレルギーの症状が出る体ですから」と、申告することも御座いましょう。

また、心臓が弱くて運動を控えねばならぬ場合も、「私は心臓に疾患がありますから」と、事前に申告しておく必要が御座います。



これは、わがままや言い訳では無く、深刻な事態を避けるための次善策であり、必要な事です。



私が今回問題としているのは、「自分は何何だから」という言い回しを、自分の都合で相手を動かしたり、自己正当化させる目的で使う我利我利亡者について、であります。

「自分は何何だから」に観る無明:自己正当化するための見苦しい言い訳でしかない

「自分は何何だから」に、私が見出している無明の一つは、「自己正当化するための見苦しい言い訳」という事柄に御座います。

まあ、みすぼらしい、見苦しい言い訳ですこと。



私は、「自分は何何だから」、己の悪業を相手に押しつけるための自己正当化や言い訳として使われている気配を観じる時が御座います。



例えば、こちらは何もしていないのに、いきなりサッカーをやっている人が、「パンチング!プッシング!」とかいって、小突いてきたとしましょう。

それで、それを注意したときに、「いや、俺サッカー部じゃん!」とか言われたら、どう思われますかね。
(実際、私がやられたことです。)



「サッカー部だろうがなんだろうが関係無し、暴力を振るうべからず」ってなもんでありましょう。

サッカー部だったら、大人しくじっとしている人を攻撃してもよいのですかね。

なんだか、いきなりこちらを殴っておいて、「本気で殴ってないだろう!」と、逆ギレする輩と、何やら似ている感じがする地獄餓鬼畜生なる言い訳です。



この理屈で言えば、私は高校時代と大学時代、アマチュアボクシングを習っていたのですが、「私はボクシングをしていますから。」といって、殴っても良い事になってしまいかねませんがな。

そんな事が、仏教的にも王法的にも、許されんでしょうに。



「自分は何何だから」と自称して、「知らんがな」と返したくなる自己紹介をされましてもね、なんの正当化にもなっておりません。

単なる見苦しいわけに過ぎませんがな。

「自分は何何だから」の後に続く言葉を推察し、そこから観えた無明

「自分は何何だから」に対する、私の長年の違和感と、そこに見出す無明。



「自分は何何だから」というのは、「自分は、こういう存在である」と、一見すると、自己分析して自己の有り様を進言しているように聞こえますし、見えます。

しかし、どうも自身をきちんと把握している、自覚しているとは思えない違和感が御座います。



私は更にその先に、こういう煩悩があるのではないか、と、私の実体験からも色々と考えて、思い足りましてね。

それは、こういうことです。



「自分は(何何)だから、お前は私の(何何)に沿うように動くように。」



後半部分を、こうすると、よりわかりやすいでしょうかな。



「自分は(何何)だから、お前は私の「お気持ち」に沿うように動くように。」



ようするに、「俺が気持ち良いと観じるように、お気持ち通りに動け」という事です。

相手を、自分の思い通りに、自分都合で生きろという、なんとも傲慢、慢の煩悩を見出したわけです。



「自分は(何何)だから」と、一見すると、自身を語っているように見えはします。

しかしその内実は、己の煩悩が全く見えておらん、己に燃えさかる慢の煩悩に焼かれまくっていることに無自覚であるという、無明さ加減といったら、もう。



自覚を装って、その実は全くもって己の煩悩に気付いておらぬ無自覚であるという在り方。



私も陥らぬように、己を顧みるところに御座ります。合掌。

わかっているなら直しゃよろしゅおすがな

もう一つ、「自分は(何何)だから」という見苦しい言い訳に見出した、無明なる事。

あなたも、もしかしたら、こう思った事って、ありませんかな。

「自分は(何何)だから」と、言い訳がましく言われた次の瞬間、「知らんがな。」と共に、思うた事もあるのではなかろうか、という事柄。



「自覚があるなら、直せば宜しかろう。」

「わかってはるなら、直さはったらよろしゅおす。」



いや、だって、「自分は(何何)だから」って、自身の治すべき部分、調えるところを、自身で言うてるじゃあ、ありませんか。

もしも、今後何か相手がやらかしたり、ちょっかい出してきて「自分は(何何)だから」と言い訳してきたら、こういう切り返しが、有効かもしれませぬ。



「わかってるなら調えれば宜しかろう、さもなくば自覚していないという事と見なす」と。

まあ、喧嘩になる可能性が高そうではありますが。

「自分は(何何)だから」の後に続く事柄をこうすると、進化・調える智慧となる

「自分は何何だから」と、自己の在り方を自覚している振りをして、そこにある慢の煩悩に気付かぬ無明なる在り方と言い回し。

なんだか、「自分は何何だから」という言い回しそのものを、否定的な捉え方をしている話を展開してきたものではありますが。



私は、「自分は何何だから」という表現そのものには、善悪があるとは頂いておらず、ようは、活用の仕方によって、悪業にも智慧にもなろうかと考えております。



この、現在の自己を規定する言い回し、「自分は(何何)だから」を、進化の智慧としたり、自身を調える智慧とするには、どうすればよいのか。

その一例を、私の実例を用いてお伝え致しましょう。



私は、この寺院(ブログ)の表題・ブログタイトルにもしております通り、「念仏者」という自覚が御座います。

ここで「わたしゃ念仏者だから」と言いながら、木魚を叩くバチで人様をバチバチ叩く、という事をすれば、仏罰ものです。



そうではなく、進化・調える智慧とするなら、次のように活用するのです。



「私は念仏者だから、法然上人が伝えて下さる「無間に修すべし」を実践しよう」



法然上人は、一紙小消息にて、このように伝えて下さっています。



「行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。 一念なお生る、況や多念をや。」



全文説明し出すときりがありませんから、ここでは割愛致しますが、私は、この「無間に修すべし」に注目しておりまして。

「無間に修すべし」とは、「お念仏を絶えず続けるべし、称え続けよ」という意味です。



人と会話している時には、流石に念仏だけ申すわけにはいきませんが、それ以外でも、お念仏を忘れがちな、怠惰な凡夫なる私。

そこで、「念仏者だから、完全に「無間に修すべし」とはいかずとも、目指すのが宜しかろう」と、日々お念仏に励む。

これが「私は念仏者だから、法然上人が伝えて下さる「無間に修すべし」を実践しよう」という、その有り様です。



「私は(何何)だから、このように調えます」という、「戒(かい)」として活用する。



ちなみに、私は朝と夜の勤行と、気付いたらお念仏するようにしております。

この風呂に入りながらお念仏したり、珈琲を入れながらお念仏したり。



(お念仏以外では、瞑想修行をしながら珈琲を入れる、と言う事もやっており、仏道修行と共に歩ませて頂いて居る、というお味わいです。)



参照記事:「丁寧な暮らしがマインドフルネス瞑想で実現しやすくなる理由|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想から気づいた事」

参照記事2:「日常生活の中で出来るマインドフルネス瞑想の方法|プラユキ・ナラテボーさんから教わった事」

参照記事3:「手動瞑想を続ける日常生活での実感|「気づきの瞑想」の効果を頂ける日暮らし」

参照記事4:「「実践!!瞑想の学校」読書感想文|仏教の気づきの智慧と日常生活の送り方を考える」



「自分は(何何)だから、(何何)であるから、このように調えていきます」という、戒の宣言として、「自分は(何何)だから」とする。



このような塩梅が、宜しかろうと思い、私も実践しておる今日この頃に御座ります。



合掌、礼拝

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