御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
先日、Amazonのキャンペーンで、「自由になるトレーニング」という本(電子書籍)が無料で手に入る期間が御座いまして、これを機会に手に入れて読み進めました。
「自由になるトレーニング」は、プラユキ・ナラテボーさんとイケダハヤトさんとヒビノケイコさんという、お三方の対談本です。
プラユキ・ナラテボーさんの本は、過去に何度も読んでおり、その関連でこの電子書籍にも目を付けておりましてね。
他にも読む本があって、なかなかここまで到達出来ていなかったところ、丁度読めるタイミングと、無料期間キャンペーンが重なり、今回、手にするに到りました。
そうして、読み終えました故に、いつものように読書感想文をここに記しておきます。
今回の本からも、色々と学べる事が御座いまして、興味を持っていたけれども、どうしようか迷っている人は、一つの参考資料としてお使い頂けましたら、嬉しゅう御座います。
いつものことながら、毎回プラユキ・ナラテボーさんの書籍や言説から、色々と仏法を頂いておるところに御座います。
合掌。
Contents
「自由になるトレーニング」の読書感想文の前に:私なりの題名解釈・頂き方
「自由になるトレーニング」という、プラユキ・ナラテボーさんとイケダハヤトさんとヒビノケイコさんの対談本について、読了後の読書感想文を綴る前に。私、実は結構、本の表題・題名(つまり本のタイトル)について、立ち止まって考える事が御座います。
「なぜ、この本はこの題名なのだろう?」とか「この本の題名を、私はどのように頂くか。」と、考えたりするわけでありまして。
ここを素通りすると、「本の題名・タイトルと内容が全然違う」という、違和感なり驚愕に到ることにもなりますからね。
「自由になるトレーニング」という表題・タイトルから、あなたは何を連想されるでしょうか。
どのような本だと思いますかね。
恐らく、「自由=freedom」という図式で題名を解釈し、そのためのトレーニングについて具体的手法が書かれている本、と思われることかと存じます。
素直、と言って適切かどうか存じ上げませんが、大体は、そんな自己啓発的な捉え方を成される人が多いかと存じます。
私は、この「自由」を、仏教が説く「自由」として捉えております。
仏教的な「自由」から、娑婆世界の言う「自由、freedom、liberty」に通じていく事は往々にしてあり得ましょう。
ただ、娑婆世界「自由」に繋がる前段階、出発点として、仏教が説く「自由」を、この表題・本のタイトルから読み取り、解釈致しました。
仏教が説く自由とは「自らに由る」という意味です。
このことを踏まえると、「自らに由る、そのような行き方をするためのトレーニングの本」というわけですね。
また、題名に「トレーニング」とありますが、ゴリゴリと具体的なトレーニング手法は書かれておりません。
プラユキ・ナラテボーさんの本と言えば、仏道修行、瞑想の実践的な話を、写真付きで紹介されている本が多いのですが、この本は少し色が違います。
本を読み終えての感想は、「自由になる=自らに由る生き方のトレーニング・修行をするための、前段階の解説・説明書」と言った感じだなあ、というのが、率直な私の感想です。
以上の事を踏まえると、「自由になるトレーニング」は、「自らに由りて生きる鍛錬・修行の解説本、トレーニング前のトレーニング(準備運動)の本」である、と私は頂いております。
英訳すると、よりわかりやすいかと存じます。
この本の題名・タイトルを英訳するならば「self-reliance-preparation-training」と言ったところでありましょうか。
「self-reliance」は、鈴木大拙さんによる「自由」の英訳で、「他に依拠せず、外に求めぬ事」です。
参照記事:「自称「自由人」が不自由な件|自己啓発やネットビジネス系のいう「自由」が特に酷い」
本の題名・タイトルだけで、随分と長くなりましたが、以上の事を踏まえ、題名からすでに仏教の味わいを頂きながら読み進めて頂くと、より仏教的な学び方が出来る準備も調うかと存じます。

「自由になるトレーニング」で学んだ事:私の読書感想文
題名について、共に味わったところで、「自由になるトレーニング」について、私が学んだ事や思うた事等の感想文を、本の内容を要約しながら、お伝えして参ります。今回も、色々と学べたことや、改めて考えた事が多々御座いましてね。
ほんと、プラユキ・ナラテボーさんの本や瞑想会、言説からは、色々と智慧を頂けて、有り難き良縁であると味わっております。
まさに、「善き縁に触れ、善き縁となし、善き縁となる」なり。
「自由になるトレーニング」から学んだ事と感想1:瞑想のヤバさ、副作用と対処法について
「自由になるトレーニング」から、改めて学んだ事と、その感想の一つ目。「瞑想のヤバさ、副作用について最初の方に書かれており、その対処法もある」
瞑想のヤバさや副作用について、見出しで言えば「トレーニングにはその人のプロセスがある」に、記されております。
これは、「悟らなくたって、いいじゃないか」で、最初の方でプラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さんが、対談形式で伝えて下さっている事柄もあります。
プラユキさんと魚川さんの対談本では、「瞑想難民」という言葉を用いて、更に踏み込んだ解説が成されています。
瞑想難民になってしまう、瞑想をすると逆に具合が悪くなる、という現象。
これは、瞑想ブーム、マインドフルネス瞑想がブーム的な広がりをみせている事の、副作用でもあるように、私には思えます。
瞑想のバーゲンセールとでも言いましょうか。
そのような事をいましめるつぶやきもあります。
アメリカには瞑想コースの広告があって、3日で悟れるとか、1000ドル払えば悟りにかかるのは3日だけとか、そんなことを言っています。そんな近道は存在しませんよ。悟りを買うことはできません。
— ウ・ジョーティカbot (@U_Jotika_bot) 2017年5月4日
ウ・ジョーティカさんの言葉をつぶやくBotのつぶやきですけれども、ウ・ジョーティカさんの瞑想についての本は、魚川祐司さんが訳して下さっています。
これを機会に、こちらも読まれると宜しいかと存じます。
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瞑想と一口に言っても、様々に御座います。
現在の瞑想についての一般的なイメージとしては、「雑念・妄念や妄想を打ち消し、煩悩を払う」という目的で行う、というものではなかろうかと存じます。
よういう「無我になれ」ですね。
そういう瞑想も、あるにはありますが、それに執着するあまり、「いつまでやっても雑念が湧く、そんな自分は駄目なはずだー」と、自己否定に到る事が御座います。
これが、「瞑想難民」になる要因の一つです。
そういった瞑想することによって陥る「ヤバさ」が、「自由になるトレーニング」の、最初の方で解説されています。
その対処法については、プラユキ・ナラテボーさんが本書で教えて下さっています。
ポイントは、「瞑想の種類と、瞑想指導者との相性をきちんと見極める事」です。
ここ、瞑想をしようと考えている人にとって、とても重要なところですから、読み飛ばさないように。
「自由になるトレーニング」を読んだ後に、瞑想のヤバさや副作用について、更に踏み込んでいる「悟らなくたって、いいじゃないか」を読まれると、より理解が深まるかと存じます。
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「自由になるトレーニング」から学んだ事と感想2:
「自由になるトレーニング」で学ばせて頂いた事の、感想二つ目。「善友と交わり、適切な場所に住む」
これは、見出しで言いますと「人に頼っていいんだよ」に記されている事柄に御座います。
このことについては、イケダハヤトさんが「置かれた場所で咲きなさい、を実践すると」という事について、彼のブログにて言及されていることにも通じます。
現代社会では、未だに忍耐という意味で「我慢」が美徳とされるような空気が健在であると感じますし、「置かれた場所で咲く」というのは、一見相性が良さそうに思えます。
さらにたちが悪いことに、身の危険を感じて立ち去ろうとする人を、「置かれた場所で咲きなさい」を、こんな悪用の仕方をしている輩って、おりませんかね。
「そんなんじゃ、どこへいってもやっていけないぞ。いいか、置かれた場所で咲きなさいって言葉があってだな。」
余計なお世話、迷惑千万、勘違いも甚だしい。
こんな事を言う輩は、別の場所で大きく開花する可能性が全く見えていない、その人を全く観ていない盲目状態の我利我利亡者の姿です。(と、自覚して申します。)
だいたい、置かれた場所の土壌がすでに腐りきっていて、そこに全くもって適合しない種が蒔かれたところで、その種は腐って消滅するだけですがな。
確かに、自力で何とかする事は、自己研鑽や成長に直結しておりますから、それはそれで大切です。
一つの場所に留まって、踏ん張るという事も、「自由(自らに由る)」てやるのであれば、それはそれで善い作用も御座いましょう。
しかし、それを無理したり盲信したり執着すると、咲く前に消滅してしまいます。
ブッダは、「善友と交わり、適切な場所に住む事」を、説いております。
これは、法句経(ダンマパダ)260辺りに書いてあります。
ブッダは一カ所に留まらず、教えを伝えるべく、行脚していました。
一カ所に留まる時期は、雨季の「安居(あんご)」くらいで、後は托鉢しながら歩き回っていたというのが、悟った後のブッダの姿です。
日本仏教の高僧も、生涯をたどってみると、一カ所に留まってはおりません。
道元禅師も、中国へ渡って修行してまわっています。
禅宗の修行僧を「雲水(うんすい)」と言いますが、この呼び方は「一カ所の留まらず、禅師を訪ね歩き遍歴する」という姿を言い表している事に由来します。
法然上人も親鸞聖人も、修行時代は20年単位で比叡山におられたのはおられましたが、その後は各地へ赴かれていますからね。
法然上人の場合は、流罪で四国に行かれましたが、それをお念仏の教えにて衆生を救う絶好の機会とされました。
つまり、場所に執着していなかったわけです。
親鸞聖人も、流罪がとかれた後も、今の新潟県の辺りから関東をまわって、ようやく京都に戻られています。
一遍上人は、念仏行脚、置かれた場所で咲くどころか、どこにも置かれることなく、念仏しながら歩き回っておられました。
「自由になるトレーニング」で、プラユキ・ナラテボーさんは、このように説いて下さっています。
ところで、ブッダはそうした自力による苦しみの解決を施す一方で、「よき共と交わりなさい、よき場に住みなさい」といった教えも説いています。
(中略)
ブッダは、自分の問題は自分で解決する事が大事だと言っていますが、「全部自力でやりなさい」とは言い切っていないわけです。
※「自由になるトレーニング」プラユキ・ナラテボーさんパートより引用
また、文中で「「置かれた場所で咲きなさい」ではなく、人間は植物ではないのだから」とも説いて下さいます。
ほんと、「置かれた場所で咲きなさい」を悪用して押しつけてくる輩には、「人を植物だと思うておるのか?」と、問いたい。
ここで注意を一つ。
この部分は、「置かれた場所で咲きなさい」という本や、著者を卑下・ディスっているのではなく、時にはそういう踏ん張り方も大切である場面も観察しつつ、それに執着しすぎて具合が悪くならないように、という注意の施しだと、私は頂いております。
この部分、くれぐれも素直に読みつつも、洞察することなく、短絡に陥って読まないようにしたいものです。
「自由になるトレーニング」から学んだ事と感想3:
「自由になるになるトレーニング」で、学んだ事と感想の三つ目。「タム・キット(身の行)とタム・チット(心の行)」
「タム・キット」とは、タイの言葉で「身・体で行う事」です。
「タム・チット」とは、タイの言葉で「心で行う事」です。
わかりやすく言うと、体と心、身心両方で行ずる、ということですね。
これ、実はきちんと知っておかないと、上でお伝えした「瞑想難民」になったり、ヤバさや副作用にもあてられてしまいます。
そしてこれは、原始仏教、テーラーワーダー仏教や日本の仏教に限らず、どの宗教でも、また、スピリチュアル業界にも言える事です。
特に、私の様に苦悩から仏教なり宗教に触れる、あるいは再開する人にみられやすい現象ではなかろうかと存じます。
どういうことかと申しますと。
例えば、プログラミングをしていて、エラーが出たりバグが出たと致しましょう。
そういう時、どのような対処を取られるでしょうか。
いきなり「エラーが出たから瞑想だ」「バグが出たからお念仏だ、南無阿弥陀仏」とは、ならない事が大半ではなかろうかと存じます。
そりゃあね、冗談めいて「ああ、バグだ、なんまんだぶー」とか、そういう場面はあり得ますがね。
そうではなく、プログラミングをしていてエラーなりバグが出たら、コードをチェックして、間違った記述やエラーの原因となるコードを書き換えたり修正する、というのが、解決策です。
エラーやバグと言った課題の解決策は、原因と特定して、その手で書き直すなりして解決する、これです。
これが、「タム・キット(身で行う、身で行うべき事を行う)」ということです。
しかし、これはわかりやすい例ですが、特に苦悩であったり、身に起こった苦痛が精神を強烈に揺さぶられたとき、人はこんな事をやらかしがちです。
「致命的なバグだ、もう救いようがない、でも救われたい→瞑想や念仏で救われるはずだ。」
このような事に陥ったところを狙っているのが、我利我利亡者なる詐欺師だったりするのですがね。
確かに、エラーが出たら、心や精神も動くことでありましょう。
「ああ、エラーだ、ちょっとやだなあ。」くらいには思う事は、私だって現に経験しています。
その時に、「いやだ」と思った事に気づいて、まずは落ち着くために、瞑想やお念仏を申す事は否定致しません。
その事によって、落ち着いて冷静に対処する事が出来るようになる、という副次的・間接的な効果はあります。
ただ、エラーやバグの解決は、身を使って行う事、「タム・チット(心で行うべき事を行う)」であり、あくまでも副次的・間接的な作用で、「タム・キット(身で行う事)」ではありません。
エラーやバグという現に実った果(現実の課題)は、身で、具体的な方法を用いて、解決する事とは、また別の話です。
ここのところを誤ると、とんでもない事になります。
「経済苦は、信心が足りないからだ」とか、ね。
経済苦は経済活動にて、生活苦は生活を営む上で、克服していく事です。
瞑想にて心・精神の動揺を緩める作用はあるにしても、瞑想で経済苦を「直接」消し去ろうとすると、落とし穴に嵌まりかねませんから、ご注意をば。
私はお念仏を毎日申す念仏者でありますが、お金を稼ぐためだったり、家事を念仏に肩代わりしてもらうためにお念仏しているわけではありませんからね。
仏教、宗教に、身で行って解決する課題を、自分都合で「心の課題だけ」にすり替えて、肩代わりさせない事が肝要です。
この辺り、イケダハヤトさんがご自身の経験を元に、具体的な対処法を示されて、ヒビノケイコさんはプラユキ・ナラテボーさんから教わった事を本分で伝えて下さっています。
「現実では、警察に通報する、セキュリティレベルをあげるなど、具体的な対策をすること。
プラスアルファとして、恨みに対しては恨みで返さない。」
(中略)
現実と心の両面からのアプローチですね。
※「自由になるトレーニング」ヒビノケイコさんパートより
身だけではなく、心だけでもなく、両面からアプローチする事が肝要で御座います。
「自由になるトレーニング」の感想文の続きは次回に
「自由になるトレーニング」では、この他にも、色々と学んだ事が御座います。今回だけで、感想文が終わるかと思いきや、3つの学びと感想をお伝えしただけで、6000文字を超える程に膨らみました。
別の機会を設けて、前後編にして「自由になるトレーニング」を、紹介しつつ感想文を綴る事に致します。
今回紹介致しました「自由になるトレーニング」に関連して、プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談を、こちらで紹介しております。
参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんとヒビノケイコさんの対談動画から学ぶ|自己啓発で消耗している場合ではない」
今回の話と併せて読んで頂ければ、更に理解が深まり、仏法に触れて頂けるかと存じます。
尚、今回の御縁で、他のプラユキ・ナラテボーさんの本を読んでみたいと思われた方には、こちらで過去に私が読んだ本を紹介しております。
参照記事:「「脳と瞑想」から「意味付けの中継地点」を学ぶ|自己啓発の不十分な点を補うプラユキ・ナラテボーさんと篠浦伸禎さんの良書」
参照記事2:「マインドフルネス瞑想入門にプラユキ・ナラテボーさんの本や講座が良い2つの理由」
参照記事3:「うつ病の症状が和らいだ時に読んでよかった本3選|五木寛之さんとプラユキ・ナラテボーさんの本」
本も名著揃いでありますが、御縁がありましたら、プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会に参加されるのも、趣があろうかと存じます。
晴れた日には、外で歩く瞑想を共に行ずる機会もあります。
参照記事:「不安解消に効果があるマインドフルネス瞑想を体験してきました|プラユキ・ナラテボーさんとの善き縁」
参照記事2:「マインドフルネス瞑想会体験感想文|プラユキ・ナラテボーさんの講座での気づき・2017春編」
参照記事3:「マインドフルネス瞑想の3つの注意点と解決方法|瞑想で消耗しないために」
「自由になるトレーニング」、読みやすい上に仏法を多々学べる、良書であると頂く私で御座います。
プラユキ・ナラテボーさんの対談本は、ほんに味わい深いものなり。あなかしこ、あなかしこ。
合掌、礼拝