自灯明は法灯明とセットで|プラユキ・ナラテボーさんの本「『気づきの瞑想』を生きる」の不放逸の教えに学ぶ

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



Twitter経由で、プラユキ・ナラテボーさんの著書「『気づきの瞑想』を生きる」が、増し刷り(5刷)に至ったという話を知りました。


「『気づきの瞑想』を生きる」は、プラユキ・ナラテボーさんの最初の本であり、私はつい最近に購入して読む御縁を頂いたのですが、なんとも御縁を感じるタイミングに御座ります。

ちなみに、書籍の仕事の関わりは、それよりも前に出版されている、カンポン・トーンブンヌムさんの本「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」もありますが、そちらは監訳として関わっていらっしゃいます。
(浦崎雅代さん訳の本です。)



プラユキ・ナラテボーさんのデビュー作である「『気づきの瞑想』を生きる」。

改めて本を開き、つい最近のプラユキさんの話にも通じるところがありまして。

そしてそれは、私も常々思うて、そのことを大切にしている話でもあります。



今回は、「『気づきの瞑想』を生きる」の5刷記念というわけではありませんが、改めてこの本から学んだことをお伝え致します。

この話を書いている日の近日中には、浦崎雅代さんとプラユキ・ナラテボーさんの対談もありますから、予習的に私の話をお読み頂き、本も開いて見られると宜しかろうと存じます。

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仏教の有名な言葉「自灯明・法灯明」

突然ですが、あなたはこの言葉をご存じでしょうか。



「自灯明・法灯明」



この言葉、仏教に少し触れたか、あるいは仏教系の大学で仏教学を学んだ人なら、恐らく触れた経験もあるかと存じます。

「灯明」ではなく「島」とも言われていますね。



この「自灯明・法灯明」とは、仏陀が涅槃に入られる前に、「私(仏陀の事)を拠り所とせず、自身と法を拠り所にしなさい。」と言う意味で言われた、と伝えられており、私もそのように習いました。

結論から申し上げますと、私は、この「自灯明・法灯明」について、自灯明は法灯明とセットであることが肝要である、と、お味わいを頂いております。


自灯明の誤解:自灯明を自分都合に誤解したり歪曲したり、放逸である事と捉えていないか

この記事を書いている少し前、プラユキ・ナラテボーさんが灯明の話を、Twitter説法、辻ッターでされていました。





私は、プラユキ・ナラテボーさんのこの教えから、改めて、「自灯明は法灯明とセットである事が肝要であるなあ。」と、思うた事に御座ります。



どういうことかと言うと。



自灯明は「自身が拠り所、自身を拠り所とする」という意味が御座います。

これは、他者(人に限らず)を拠り所としても、それは無常故に拠り所となり得ないから拠り所として依存するべからず、という文脈で語られることが多いかと存じます。

無常を説く仏教らしい言葉でありまするね。



ただ、この「自灯明」は、「法灯明」と共に語られている事を、私は見逃せませんでして。



法灯明が無く、ただ「自灯明」だけしかないと、プラユキさんのつぶやきにもある通りの誤解も起こり得ます。

つぶやきには、「己の心のままに生きよ、という誤解」とありますね。



わかりやすい典型的な例を使うなら、「自己責任論」でありましょうか。

「どうせ自己責任なんだろ?だったら俺様は自分で責任とるから、何したって構わない。」とか、そういう暴走する人や、そういう言説を宣う人、周囲にいませんかね。



自灯明も、これと似たような誤解をすると、ただの「自分勝手」と勘違いしてしまいかねません。

まさか、仏陀がそのような意味で「自灯明」という教えを弟子達に残したとは考えにくい。

動物的な「あるがまま」と自灯明は違うと考える私

この「自灯明」に対する誤解について考えた時、思い出す自己啓発的な言説、スピリチュアルな雰囲気のある言説が、「ありのままの自分」です。

最近は、「ありのまま教」とか、そんな言い方されてませんかね。

「何も足さない、何も引かない、ありのままのあなたでいいんだよ」と、そんな感じで。



いや、まあ、言わんとしておる事は、わからんでもありません。

しかし、これを「じゃあ、何もしなくていいんだー。」と、「何もしないのがありのままの私だ」と、都合の良い自己肯定の言い訳に使われてしまっておる場面って、観たことありませんかな。

もしくは、「これがありのままの自分なんだ!」と、傍若無人な振る舞いを正当化する、という使い方をしたり。

(私も人様の事言えませんが・・・。)

しまいには、私が某八つ橋工場で出会った亡者共の如く、「おばさんはうるさいもんや。」と、自身の振る舞いや在り方をただすことなく、周囲が自分に合わせるべきだ、という在り方になるという始末。



この状態は、まさに「放逸」と言えましょう。

「放逸的自我」とでも言いましょうか。

早い話が、「ありのままの自分=ただの我が儘」です。



私はこれが「自灯明」とは考えておりませんし、自灯明の教えを、このようには頂いておりません。

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「放逸」ではなく「不放逸(気づきを失わない)」

では、放逸的な「ありのままの自分」が自灯明ではければ、何なのか。

「自灯明」は自分勝手とは違うというならば、どのような事であるのか。



その事について、プラユキ・ナラテボーさんの著書「『気づきの瞑想』を生きる」に、記されています。

「放逸・不放逸」についての教えは、123頁から詳しく書かれています。



「不放逸」とは、「油断したり流されたりぼんやりして、放逸的に過ごさぬ事、気づきを失わないこと」と、プラユキさんは仰います。



この事を踏まえると。



「どうせ他は当てにならんから我が道をゆく」と、自分を拠り所にしているようで、ただ自分の好きなように放逸的に生きる事が、果たして自灯明と言えるでしょうか。

無常なる他者を当てにしない事は確かに大切ではありましょうが、だからといって自分勝手に生きる事を「ありのまま」と称して生きる事は、果たしてどうなのか。

不放逸を説く仏陀が、自灯明を「放逸的な生き方」として教えたとは、私には思えません。(あくまで私が勝手にそのように思うておるだけではありますが。)



他者を依存的に拠り所とせず、だからといって放逸的な自身を生きるのではなく。

気づきを伴った不放逸なる自身を拠り所とする。



私は、プラユキ・ナラテボーさんの本にある教えを踏まえて、「自灯明」をこのように味わい、頂いております。

「自灯明」は「法灯明」とセットで:法を拠り所として気づきの智慧に調えられている自己を拠り所とする

プラユキ・ナラテボーさんの「『気づきの瞑想』を生きる」の教えを踏まえた上で、更にそこから一歩踏み込みまして。



私は上述しております通り、「自灯明」は「法灯明」と共に在る事、法がセットである事が肝要であると考えております。



「『気づきの瞑想』を生きる」には、それに関連する事柄が、125頁に書かれています。

大切な箇所ですから、引用致しますね。


弟子「一法にして、現在の(現世的利益)と未来の(より高次なる)利益の二種の利益を得られるものはありますか?」

ブッダ「ある」

弟子「その法とはなんでしょうか?」

ブッダ「その法とは、不放逸である」

この引用部分の前後も大切ですから、是非本を手にとって読んで頂ければと存じます。

これを踏まえて。



私は、不放逸な自身を自灯明とする、拠り所となり得る自身とは「法に調えられし自己」であると、思うておるのです。



もっと詳しく申し上げますと。



「法によりて調えられし我を具足した(我具足)」が、自灯明ではなかろうか、そのように思うのです。



では、そのような自身はどのようにして調えるかと申しますと、プラユキ・ナラテボーさんが仰る通り、気づきを失わない事であり、その修行をすることです。

そして、その修行の方法や在り方は、仏法、戒や律が道標となりましょう。



ゆえに、自灯明は法灯明とセットにて、法灯明に調えられし自灯明、という頂き方を、私はしております。



「ありのまま」を自分の都合の良い使い方だけで放逸的にならない:気づきの智慧にて不放逸

今回は、プラユキ・ナラテボーさんの「「気づきの瞑想」を生きる」から学んだことをお伝え致しました。



「気づき」を失わず、放逸になってしまわず不放逸なる在り方にて、自らを調えていく。



自己啓発的な世界や、スピリチュアルな界隈では、「ありのままの自分でいよう」という言説があります。

もしも、全人類が完全に「ありのまま」になったら、どうなるのか、観てみたい気もしますが、恐らくただの「動物的で放逸な振る舞い」がはびこる事でありましょう。

そもそも、人は易きに流れやすいものでありましょうし、自分勝手な振る舞いが衝突し合って、争う毎日になりそうな気が致します。



そういった、放逸的な方向には突っ走らず、気づきの智慧にて不放逸なる自己、調えられし自己となる方法を伝えてくれているという性質が、仏教・仏法にはあると、味わっております。





他者に寄りかかったり流されるまま、これも放逸的であり、かといって自分勝手で好き放題やらかすことも放逸なる事で自灯明にあらず。



法に調えられし自己であるよう、改めて「自灯明・法灯明」の教えを学び、行学二道を歩むことに御座ります。



合掌、礼拝

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