自己否定と自己肯定の間(はざま)でゆらぐ|Shinさんの良記事から仏法を味わう

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



私は、以前にお伝えした事のある、やまもとりゅうけんさんが主催される僧伽(そうぎゃ:サンガ)的な集まりに寄る御縁を頂いております。
やまもとりゅうけんさんについては、こちらの記事でお伝えしております。

参照記事:「やまもとりゅうけんさんのnote(月額500円マガジン)に学ぶ|特にこの記事を読むべき」



それで、私が参加させて頂いております集まりに、共に参加されている方の一人に、Shinさんという方がいらっしゃいまして。

Shinさんのブログは、私よりもビジネスの気配が色濃いブログであり、仕事やビジネスについて学べるサロンも主催されています。

また、ブログの書き方についても詳しく解説して下さっていますから、ブログ運営について学びたい方にとっても、善き縁となるブログを綴られています。



私は、共に参加している僧伽的な集まりの御縁のお陰様で、Shinさんのブログ記事を読ませて頂く機会を賜り、そこでいくつか仏教的な学び、仏法を頂ける記事も読ませて頂きました。



今回は、Shinさんのブログ記事から、特に浄土仏教の御教えにも共通する事柄で、学び続ける姿勢を保ち、傲慢な人にならぬ智慧にも繋がる記事を紹介させて頂きます。

浄土仏教思想を大切にする、私という在家仏教者で念仏者は、どのように読み解き、どのように頂いて活用するか、お伝え致します。

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Shinさんの良記事:「実力ないのに自己肯定しまくる人」の話

私が、Shinさんから学ばせて頂いた良記事は、以下の記事で御縁を賜るに到りました。

まずは、こちらを読んで頂ければと存じます。



Shinさんの良記事:「「実力ないのに自己肯定しまくる人」とはできるだけ関わらないようにしたい」



はい、お帰りやす。



この記事では、Shinさんが他者をどう感じるか、という話がされております。

「こういう人は応援したい、こういう人は尊敬する、こういう人と付き合うのは無理。」という事を、図に示しながら解説されています。

最初の方に掲載されております、4つの部屋の絵、マトリックスの図は、非常にわかりやすい。



ちなみに私は、「実力はない、そんな実力のない自己をついつい否定してしまいがち」な性質(さが)、在り方です。

ゆえに、自己を顧みる定点観測装置と、勤行であったりお念仏によって常に出会わせて頂ける、浄土仏教と相性が良いのであろうとは感じる事があります。

Shinさんの図で言いますと、「実力がない、自己否定出来る」に当てはまるでしょうか、私の場合は「出来る」というより「ついつい自己否定してしまう」という感じではありますが。



だからでしょう、睡眠障害からうつ病等を発症するに到ったのは。

プラユキ・ナラテボーさんに教わった手動瞑想などの智慧により、随分気づくようにはなっていますがね。



浄土仏教と言えば、法然上人も親鸞聖人も、一生涯己と向き合われて、「俺すげえウェイ!」とは真逆とも言える生き方、自己を誤魔化さぬ生き方を貫かれました。

親鸞聖人は、85歳、86歳になっても「浄土真宗(浄土の真実の教え、という意味)に帰すれども」から始まる和讃を残されています。



Shinさんが書いて下すった図に当てはめると、法然上人と親鸞聖人は、「実力があって自己否定(この「自己否定」の使い方や概念は、仏教的な読み替えをしていますが、それはまた後ほど)が出来る人」におわしますでしょう。

「智慧第一の法然房」と称された法然上人は、ご自身を「愚痴(おろかな)の法然房」と言われていましたからね。

Shinさんは、図でいうと右上におわします方を「超尊敬する」と仰っていますが、私も法然上人や親鸞聖人を尊んでおりますから、似たような感じ方はありそうだと、観じております。

Shinさんの「自己否定」の語感:私はこう読み替える

今回紹介させて頂いております、自己の実力と在り方を顧みる事が出来るShinさんの良記事には、「自己否定」「自己肯定」が、鍵言葉(キーワード)として御座います。



私は、うつ病の経験があるために、「自己否定=悪」という連想・イメージを持っておりました。

今では、気づきの瞑想や仏教の智慧を頂いている事もあって、善悪だけで結論づける事は御座いません。



それを踏まえて。



きちんとShinさんの記事を読み続けてみると、Shinさんの仰る「自己否定」は、「自己の完全否定、存在否定」という語感・ニュアンスではなさそうだ、と観じております。

また、自己肯定についても、世間では「自己肯定感が大切だ」という話がよくありますが、たんに「自己肯定感は絶対的に善いものである」とは違う語感・ニュアンスを観じます。



そこで私は、「自己否定」を必ずしも悪い方向で使っているのではなく、「自己肯定」を善いものだと決めつけて使っている事ではない、という前提を見出し、このように読み替えるに到りました。



私が考える、Shinさんの記事における「自己否定」は、「自己の成長を妨げる(居着き)や慢の煩悩に支配された状態の否定」ではないか、そのように頂いております。



これは、プラユキ・ナラテボーさんから直接教わった御教えにも繋がります。



私も以前に陥っていたのですが、瞑想や坐禅を組んでいると、雑念が湧いてきます。

その時に、「雑念が湧く私は駄目な奴だ。」という、「自己否定」の念が沸いてきます。

気づきの瞑想、プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる「オッケー瞑想」では、そのような自己否定してしまう自己も、一旦「オッケー」と「受容」します。



この「受容」がとても重要でありまして、Shinさんの「自己否定」という言葉の意味を、「受容ありきの自己否定」という読み替えました。



「怠け心や安住したいという煩悩がある自己の状態、現状の実力を認識した上で、怠ける在り方を否定して歩み続けるための自己否定」



このように解釈・読み替えをすると、自分自身の存在まで否定するのではなく、現状に甘んじてしまう怠け心がおこっても、そこに甘んじない「ゆらぎ」を発生させる揺さぶりの智慧となります。

そして、Shinさんも私もお付き合いは憚るであろう、実力も無いのに「俺様すげえウェイ!」という勘違い甚だしい、かつ痛々しい慢の煩悩真っ盛りなる傲慢な人にならない智慧と頂けるのではなかろうか、と存じます。



と、このように偉そうな事を言うておる私ですが、私のような煩悩具足な凡夫は、「実力のない自己肯定感全開な輩」に陥る危険と常に隣り合わせ故に、注意深く生きる事が肝要であると、戒める次第で御座います。合掌。
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「自分自身を全肯定してはならない」のは何故か

ここまで、「自己否定」についての考察を進めて参りました。

うつ病等の場合、一旦「自己否定」から完全に離れる時期が必要なときもあるでしょうが、そうでない場合は、自己否定も使いようによっては、自己改善なり成長の作用が御座います。

しかし、「自己否定の否定」に突っ走り、自己肯定だけになってしまうのも、これまた不味い。



その事については、Shinさんも言及して下すっています。

Shinさんは、紹介させて頂いた文中にて、このように伝えて下さっています。


自分自身を全肯定してはならない

(中略)

ただ、それだけでもダメなのです。

今の自分の能力や社会的地位、そういうものに安住した時点でその人の伸びは止まります。

※Shinさんの「http://www.outward-matrix.com/entry/2016/08/01/163000」より引用、以下引用文は全てこのURLから



ここ、凄く大切な事を仰っている箇所です。



現代社会では、特に「自己肯定感の大切さ」が叫ばれているという印象が御座います。

確かに、現在はうつ病等で悩まされる人も増えているというデータもありますし、そこに「強烈な自己否定、極端な自己肯定感が低いという事」は、無関係ではなかろうかと存じます。

実際に私も、うつ病が酷い場合は、四六時中、自己否定の循環に陥っておりましたからね。



ただ、だからといって、「自己肯定感が大切ですよ、自己肯定しなさい」という事を、盲信するのも考え物です。



そしてShinさんが記事タイトル・表題にもされている「実力も無いのに自己肯定しまくる人」は、実に厄介です。



自己肯定しまくる人は、「自分が正しい」という思考に陥っている事もしばしば御座います。

私も、そういう事例を何度も目の当たりにしており、悪縁ばっさりという感じで、縁が切れるに至っております。

このような、実力も無いのに自己否定だけはいっちょ前という痛々しい輩について、Shinさんは具体的にはこのように話して下さっています。

ちゃんとした仕事をしたりだとかお金を稼いだりとか人のためになったりしていないのに、「ぼくがわたしがいつでも正しい、自由に生きている自分サイコー↑↑」みたいな人。

ちょっと自分と違う意見が来ると「これだから日本はダメなんだ!!」みたいな人。



いや、ほんと、いますがな実際。



私も、ある学生気分でコンサル気取りなトレンドアフィリエイトコンサルタントや、教えるのが下手な割りに偉そうな輩のところに潜入したことがありますが、まさにこんな感じです。



「僕ちゃんを使い倒して下さい!」と言いながら、緊急事態で本当に必要な時に、「いや、今先輩が地元に来てて、これから飲み会だから。」と、全く使えない、つまり実力が無い。

で、こちらが具体的な質問しても、きちんと答えられず、「行動しましょう。」しか言わず、具体的な回答が出来ない、という呆れるばかりの実力の無さ。

その程度の実力で、例えば30人のお客様のうちで、よくて3人程しか芳しい成果を上げられないにもかかわらず「僕ちゃんは稼がせるのが得意ですウェイ!」とかやっちゃう痛々しさ。



そして、こういう輩に共通しているのが「僕ちゃんは正しい、間違っていない、間違っているのは客や世界の方だ、世界が僕ちゃんに合わせるべきだ。」という態度・在り方です。



「天上天下唯我独尊」を、全くもって明後日の方向で解釈して暴走した典型例でありましょう。

私に言わされば、「餓鬼畜生自我独走」です、餓鬼畜生が独りよがりの無明なる自我で暴走してんじゃござんせんよ。

お付き合いしたくない、と思われても、致し方ありませんがな。



確かに、自己肯定感は大切です。

自己否定だけに陥ってしまうと、自己の存在自体が危うくなりかねません。



しかし、Shinさんが仰るように「自分自身を全肯定しない事」という戒めを持つ事も、現代社会を生きる上では肝要な在り方です。



自分自身を、全く疑う事無く完全肯定してしまう事の危うさを自覚する事が大切では無かろうか、私はこのように頂いております。

「実力ないのに自己肯定しまくる人」を仏教者はこう観る

このような、実力も無い、自身の事が全く見えていない、見ようともしていない輩の状態を仏教では「無明(むみょう)」と言います。



そして、無明なる愚人であり、実力が伴っていない・実力が無いのに、それを全く顧みずに気づく事もなく、ふんぞり返っている輩の持つ煩悩を「慢(まん)」と言います。

今回の文脈では、「増上慢(ぞうじょうまん)」という煩悩が当てはまります。



「増上慢」とは、仏教においては「未だ悟っていないのに、あたかも悟ったかのように振る舞う事、高ぶった慢心の事」です。

悟っていないのに悟ったかの如く振る舞う、という部分は、まさに、実力も無いのに「俺すげえ」とかやっちゃう輩のことでありましょう。



そして、行き過ぎた自己肯定は、「これがありのままの自分だから、このままでよし」として、歩みを止めて安住してしまうと言う事にもなります。



Shinさんが記事の中で、

今の自分の能力や社会的地位、そういうものに安住した時点でその人の伸びは止まります。

と、このように仰っていますが、自己肯定には、このような状態に陥る事にも繋がるのです。



ただでさえ実力が無いのに、実力が無いままの自分を「ありのままを大切に」と自己肯定したら、最早成長・進化の見込みが御座いません。



これは、私への戒めでもありますが、実力が無いのに、「自己肯定感マジパネエ」という状態に陥らないように、精進の道を歩み続ける事が肝要で御座います。

「自己否定」と「自己肯定」の間をゆらぐ

「自己肯定」について、否定的とも言える事を申し上げて参りましたし、Shinさんの記事から、そのように感じ取った方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、Shinさんも私も、「自己肯定」を完全否定をしておりませんから、そこは注意申し上げておきます。



Shinさんは、文中でこのようにも仰っています。


最終的に自分の味方となってくれるのは自分しかいません。「おれならできる」と思うことは、自分の精神を正常に保つためにも確実に必要なことです。



自己肯定は、完全になくしてしまうことも、考え物です。

自己否定が強すぎても、バランスを欠いて自己の存在さえも否定してしまいかねません。

かといって、自己を全肯定しきってしまう程の自己肯定も、また塩梅が宜しくない。



私は、ここで仏教の智慧「中道(ちゅうどう)」であったり、両方を行ったり来たりする「ゆらぎ」が大切である、そのように味わっております。

その「中道」や「ゆらぎ」のヒントが、Shinさんの言葉の中に観られます。

「まだまだ全然自分はダメだ」と思いながら、そのダメなところを可視化し、改善するためのアクションプランを立て、改善し続ける、そうしなければどんどん人として腐っていくと感じます。



「まだまだ、自分は全然駄目である。」と、自己の完全否定としてではなく、自己を安住させぬために、一旦自己を「駄目だ」と「ゆらぎ」を起こす。

そして、駄目なところを可視化・言語化して改善していく自己の歩む態度は肯定する。

この循環・サイクルを回すために、「自己否定」と「自己肯定」の間を、上手にゆらぎながら活用していく。

私は今回の、Shinさんの良記事から、このようなお味わいを頂くに至りました。



自己の存在そのものではなく、自己のやり方や進め方を定点観測するための否定を活用する。

邁進するため、改善をするための歩みは肯定する、しかし安住しないために全肯定はしない。



このような塩梅が、自己研鑚し続け、実力無き者が実力を身につけていく歩み方ではなかろうか、そんな事を考えます今日この頃に御座います。



現在の私は、これをプログラミング独学習や実践にて、続けております。



そして、このような気づきや学ぶ良縁・善き縁を頂きました事、Shinさんに改めて篤く御礼申し上げます、有難う御座います。



合掌、礼拝

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