釈徹宗さん著「歎異抄(100分de名著シリーズ)」本の感想文と考えた事|宗教儀礼と習慣に支えられて

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日、釈徹宗さんの本「仏にわが身をゆだねよ:歎異抄(100分de名著シリーズ)」を読み終えまして。


100分de名著:歎異抄のシリーズは、アンコール放送とあわせて2度受講しており、解説本も釈徹宗さんの本で読んでおりまして、これで3冊目となりましょうか。

そして、読む度に、毎回違うことを学び気づかせて頂き、また、考えさせて頂いております。

読むタイミングが違うと、それだけ積み重なってきたこともありましょうから、読み方や受け取り方も変わってきたのでありましょう。



特に今回は、親戚との愛別離苦や、関連することを考えるきっかけとなった蝉丸Pさんの「住職という生き方」を読んだことも、深く関連しております。

私自身も、「歎異抄(100分de名著シリーズ)」や「住職という生き方」に、頷ける体験をしたという事もありますし。



今回は、釈徹宗さんの著書「歎異抄(100分de名著シリーズ)」を読み終え、感想文と体感していることをお伝え致します。

釈徹宗さん著「歎異抄(100分de名著シリーズ)」の大まかな内容:本屋で一度確認してから読まれると宜しいかと

釈徹宗さんの著書「歎異抄(100分de名著シリーズ)」について、大まかな内容だけお伝えしておきます。

購入される場合は、書店にて一度目次なり本文をぱらぱらとめくって確認してから、購入を検討されると宜しいかと存じます。

恐らく、大垣書店や紀伊國屋書店辺りの大型書店でしたら、在庫はございましょう。



釈徹宗さんの著書「歎異抄(100分de名著シリーズ)」は、内容は以前お伝えした「100分de名著:歎異抄」のテキストを一冊にまとめたものです。

本書はそれに加えて、特別章が一章御座います。

法然上人についての事や、真宗門徒の方なら馴染みがあるであろう可能性が高い「教行信証」についても書かれています。



私個別には、浄土宗の念仏をする者ゆえに、法然上人の記述が結構盛り込まれている本書や特別章は、「おお。」と有り難く思うたものです。

「歎異抄(100分de名著シリーズ)」で注目した話:宗教儀礼という装置

歎異抄を、100分de名著で学んだときのことは、旧ブログにて話したことがありましがゆえに、ここではそこまで詳しくお伝えすることは致しませぬ。

今回の、4回シリーズでなされた100分de名著の4冊分のテキストを1冊にまとめた「仏にわが身をゆだねよ:歎異抄」で改めて注目した箇所は、4章の108ページからの箇所です。



この部分は「宗教儀礼という装置」という題で話が進められておりまして。



この「宗教儀礼という装置」については、丁度この近い時期に、お通夜を経験して、更に蝉丸Pさんの「住職という生き方」を読んで改めて考えた事にも深く結びつく話であり、何度か読み返した箇所で御座います。

「歎異抄(100分de名著シリーズ)」では、この「宗教儀礼」という装置について、内在時間という言葉と概念を使い、釈徹宗さんが解説して下さっています。

効率化や時間短縮に価値が置かれる場が多い時代に:内在時間を延ばす宗教儀礼という装置

現代社会は、何かと効率化や時間短縮が良いとされる価値が置かれる場が、多々あるような気が致します。



私が出向した先は、所謂IT関連企業でありまして、まさにその典型でありました。

どれだけ時間内に効率よく仕事が出来るか、というのが、非常に価値があるとされているところがありまして。

もっとも、その割にはものごっつ非効率なところが目につくという欠点も目についたものですが。



そうして、効率よく時間短縮前提で物事が動いている環境に身を置くと、釈徹宗さんが本書で解説されている「内在時間」も、短くなっていく、とのこと。

これは、私も体感的に「確かになあ」と思う事があります。



私は、プラユキ・ナラテボーさんから教わった「怒りを智慧に変換出来る」ということを体感する前は、自分が出来る事が人が時間がかかってなかなか出来ないことに、イライラしていたものです。

例えば、PC操作で私なら5分もかからない事柄を、他の人が10分たっても出来ない場合、「なんで出来ないのだ」と、自身の伝える事を怠っておきながら、相手に憤怒したものです。

これも一種の内在時間が短縮されてしもうた結果でありましょう。

今では、きちんと伝えられていない自身の事を省みたり、出来ないことが出来るようになるまで時間がかかるものである、という事を認識できるようになったから、そのような類いのイライラは減りましたが。



他にも典型的な例を挙げると、LINEか何かで返信が遅いと、イライラするのもありましょうかね。

「既読になっているのになかなか返信がこない、うーわ既読スルー、私をないがしろにしている許すまじ」とか、そんな感じで。



現代社会は、情報の伝達や移動手段・日々の活動(書類作成なり家事なり)に至るまで、物事は効率的で時間もかけずに過ごせるようになってきました。

なんとも有り難い事です。

有り難い事ではありますが、そこに慣れすぎると、それが上手く機能せずに時間がかかるようになったとたん、ゲームのキャラクターの攻撃時に発せられるかけ声の如く、「遅い!」と発して、精神もイライラしてしまう可能性が高まる機会も増える事もありましょう。



もちろん、大切な業務や約束の時間に、電車が遅れるなどの場合は、相手あっての事、人様の時間を奪う等の不都合もありましょうから、怒ったりイライラするのもわかる話です。

しかし、内在時間が短いと、時間的な不具合・不都合に囚われすぎて、現実に即した現象に対する解決策に向かう事が遅れて、余計に時間的ロスを増やすという悪循環に陥りかねません。



釈徹宗さんが仰るように、内在時間が短縮されて、ちょっとした凹凸もやたら気になってしまい、気を取られて辛抱できなくなったりすることは、感覚として「こういうことかなあ。」と、わかる気もします。

宗教儀礼は内在時間を延ばす

宗教儀礼なり、一見非効率で意味不明な儀式というのは、内在時間を延ばすという機能がある、と、釈徹宗さんは仰います。

葬儀や少しそういったことに興味がある人ならば、三十三回忌や五十回忌まで、亡き人の法事をするということをご存じの方もいらっしゃいましょう。



うちも、何年か前に先祖の五十回忌をしたという話を聞きました。

私は当時、参列出来ませんでしたが、うちは今もそこまでやる家のようです。

そういえば先日も、「そろそろ私の祖父の三十三回忌のことを考える時期であろうか」と、話したこともありまして。



五十回忌や三十三回忌は、数字が示すとおり、五十年くらい前、三十年以上前の先祖に関わる法事・儀礼です。

それゆえに、何十年単位で話をする、ということも、法事でなされることも御座いましょう。

そのことにより、何十年単位という時間の流れに、身を置くということになるとも言えます。



もちろん、一度そうしたことをしたからといって、全ての物事を数十年単位で考えるようになるとは思えません。

ただ、そうした長い時間を連想させてくれる宗教儀礼や行為様式に、幾度か身を置くという事で、その流れが内在時間に干渉し、内在時間が幾許か延びる、という事もありましょう。



効率至上主義、効率偏重や時間短縮こそ最高という場に身を置きすぎている人にとっては、偏りすぎてバランスを欠いている現状に、妙薬となる揺り戻しになるのではないか、そのようなことを、本を読んでふと考えたもので御座います。

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効率化や時間短縮は悪者扱いしているのではなく:相反するのではなく両立出来ると思う私の勝手な思想

こういう事を申し上げると、「だったら効率化や時間短縮は悪なのか!修羅観音は効率化や時間短縮を敵視している実にけしからん!」と、誤解されかねませんから、補足をば。



私は、効率化や時間短縮を悪者扱いしておりませんし、むしろ、日々の暮らしにおきましたは、それらの工夫は大切であるとも考えております。

現に、プログラミングと作業の時間短縮を同時に学ぶべく、今はExcelのマクロなりVBAを学んでおりますし。
(RubyやRuby on Railsは、独習Rubyでまた学び実践する予定ではありますが、今はExcelを最優先でしております。)



効率化できて時間短縮できるところは、きちんとやる。

でも、そればかりではなく、日常に宗教儀礼や一見非効率とも思える行為様式を取り入れてみる。



このように、バランスを取ることが、肝要ではなかろうか、そのように私は勝手に思うております。

私の場合でしたら、Excelを使うなら、より時間を使わずに入力できるように、機能を使ったりもっと速く操作できるように訓練しつつ、それを離れた日常では、夜には必ず勤行と瞑想をする。

私以外の実例ですと、声優の日野聡さんが実践されていることも、有効な方法かと思うております。



参照記事:「気持ちの切り替え方と瞑想|声優の日野聡さんの方法が参考になります」



効率化できて時間短縮できるところはやるとして、内在時間を短縮しすぎぬように内在時間延長となる儀式や就航儀礼・宗教行為も念頭に置いておく。

このようにバランスを取ることを、考えて観るのも良いかも知れませぬ。

宗教儀礼という装置に支えられるということ:精神・心の防御力が上がる

宗教儀礼という装置について、釈徹宗さんは内在時間を延ばす効果があるということを、「歎異抄(100分de名著シリーズ)」で、教えて下さっています。

私は、それに加えて、宗教儀礼という装置には、精神・心の防御力が上がる、心が支えられるという効能もあると考えております。



これについては、以前に話したこともありましたね。

通夜での体験や、蝉丸Pさんの本「住職という生き方」でうなずいた話でもあります。



参照記事:「蝉丸Pさんの「住職という生き方」の読書感想文と実感した体験|名著なり」



以前も話したことで、また、蝉丸Pさんの本にもあるように、宗教儀礼をきっちりと行うことにより、心・精神の城壁が構築されていく、という事があります。

「精神・心の防御力が上がる」と言いますか。



これは、私も体感しておることでありまして。



そして、この心の防御力アップというバフは、現代社会においてバカに出来ないものでありましてね。

特に、現代社会はやたらと無宗教だの言われており、宗教に免疫が無い人が一定数いらっしゃるであろうこともあって、無視できない話ではなかろうか、と、私個別としては思うところでありまして。

(ちなみに、無宗教とは言うけれど、蓋を開けてみれば宗教に無自覚であるだけということもありましょうし、「無宗教という宗教の信者・信徒」という表現は、なかなかに的を射ておるのではないか、と思うております。)



例えば、私を例に使いますと。



私は、毎日勤行しておりますし、家は浄土宗の檀家として、法事もきちんと営んでおります。

先日は、浄土宗形式の法要を通夜で営みました。

更に、別時念仏会にも定期的に行っておりますし、2017年の中頃からは、毎月龍岸寺で仏教講座にて、座学の前か後に法要やお念仏にも参加させて頂いております。

盂蘭盆会には菩提寺の住職か副住職に来て頂いて棚経をあげて頂いており、春秋の彼岸会には必ず墓参りに行きます。

修正会には、菩提寺を含めて京都の寺を一日かけて回ります。(知恩院や誓願時、東西の本願寺など)

歩いている時は、念仏行脚になることも多々、町のお地蔵さんを見つけては、地蔵菩薩に合掌、礼拝。



もうね、宗教儀礼が日常であります。



そういうこともあってか、例えば私に「あなたは呪われている!」と言われても、某漫画宜しく「お前がそう言うならそうなんだろう、お・ま・え・ん・な・か・で・は・な。」と返すくらいしか出来ませぬ。
(私は人様に対して「お前呼ばわり」はしないようにしております。これは某漫画の台詞です。)



もちろん、私に対してそういうのは自由ですし、そのようなご自身の宗教の布教活動、布教の仕方も勝手にやって下されば結構。

ただ、私にだって信仰の自由がありますし、布教をされても拒否する権利も自由も御座いますから、お断りするだけです。

そして、何よりも「貴殿は呪われておるぞ私のところに入信すれば救われる救われる-!」と言われても、「すでに阿弥陀仏に救われておりますが、何か。」と、返せます。



もしも私の阿弥陀信仰や法然上人に対する敬意に対して、「それは間違いだ邪教だ!」と言うならば、「この人は他者の信仰に土足で踏み込んで土足で踏みにじる輩なんだろうなあ。」と、関わらないようにするだけです。



また、上述した葬儀や法事をきちんとしておくことは、「先祖を疎かにしたであろう!だから呪われてますよ!」と言われても、「きちんと通夜も葬儀も何回忌の法要もしてますが、何か。」と、突っぱねる事も出来るようになりえます。

宗教儀礼をきちんと執り行ったという事実は、呪い云々いうて不安をあおって何らかの勧誘をしてくる輩に対する、免疫や、断る根拠にもなり得ます。



このように、宗教的城壁、宗教的防御力が行為様式・宗教儀礼によって育まれておると、このような勧誘に対しても、免疫として働いてくれます。



宗教儀礼という装置は、釈徹宗さんが仰る「内在時間の延長」の他にも、このような効能があると、私は思うところに御座います。



宗教儀礼という装置の力は馬鹿に出来ない:一考するにも宜しいかと

今回は、釈徹宗さんの本「仏にわが身をゆだねよ:歎異抄(100分de名著シリーズ)」を読んだ感想文と、その中から一項目を抽出して、感じたことや考えた事をお伝え致しました。



宗教儀礼であったり、日々の宗教的行為様式の積み重ねは、なかなかに馬鹿に出来ないもので御座います。

私自身、仏教と再会してから、お念仏するようになって何年か経過しておりますが、いつの間にか、ふとしたときに「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と、お念仏申すようになりました。

夢の中でも、お念仏したり、プラユキ・ナラテボーさんと共に歩行瞑想したりしておりますし。

(2017年の1月7日、七草粥の日に、増上寺でお念仏しておった夢を観た時に、「ああ、私は念仏者なんだろうなあ。」と、自覚したことに御座ります。)



もしかしたら、日々の勤行なりお念仏なり、行為様式・宗教儀礼の積み重ねにより、夢を観るまでの影響があったのやも知れません。

そして今は、それらにより宗教的免疫がついておるような、そんな気も致します。



最も、私自身の免疫云々については、私が勝手に思うておるだけではありますが。



合掌、十念、礼拝

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