御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
先日、楽天ブックスで購入した「サチのお寺ごはん」という漫画の5巻が届いておりまして。
この話を書いておる時は、丁度2018年のミッドナイト念仏in御忌を終えた時でもあります。
ゆえに、ミッドナイト念仏in御忌の話をしようかとも思うたものですが、すでに去年話しておりますから、最後に去年の記事のリンクをお伝えするに止めておきます。
今回は、「サチのお寺ごはん」という漫画について。
ドラマにもなっておりましたから、ご存じの人もいらっしゃるやもしれませんね。
「サチのお寺ごはん」は、仏教関連の漫画でありまして、名前から分かる通り、精進料理であったり、お寺的なご飯と言いますか、食の話とレシピ・調理法が掲載されている漫画です。
話も、各話で仏教の話が盛り込まれており、優しく仏教を学べる入門的なものかなあ、という感じで、5巻まで読ませて頂いておりまして。(仏教そのものはヤバさもあって、優しいと言い切れませんがね、経験上。)
今回の「サチのお寺ごはん」第5巻では、食に関する学びと共に、私がいつも感じたり考えていることが書かれておりましたから、話をしようかと思うた次第で御座います。
いきなり5巻からの話ですから、気になる方には、この記事の後半部分に、1巻から案内をしておきます。
尚、極力、所謂「ネタバレ」にならんように引用や話の内容は最低限に止めますが、完全にまっさらな状態で読みたいという人、ネタバレ感想読みたくないという人は、ご注意をば。
Contents
サチのお寺ごはん第5巻:最初の1話はこんな話
サチのお寺ごはん5巻は、各話で仏教的な教えも盛り込まれておるのですが、私が今回の第5巻にて注目したのは、最初の話です。(5巻収録の最初の話という意味です。)5巻の最初の話は「ひとりで生きられる?」という題名でありまして。
物語をかいつまんで、ネタバレにならんであろう程度にお伝えしておきますと。
色々ありまして、主人公の臼井幸(以降、サチと表記します)は、所謂「お一人様」を力んでやり始めます。
そうして話が進み、サチがお世話になっているお寺の住職、源導さん(げんどう)と会い、源導さんがサチに話します。
この部分を少しだけ引用させて頂きます。
例えばこの食事がどうして出来たかを考えてみてください。
食事がそろうまでの多くの命や自然、人々の働きが想像出来ます。
(中略)
本当に多くの数え切れないご縁の中で私達は生かされているのです。
※「サチのお寺ごはん」第6巻第25話より引用
ここ、本当に私は毎日頂く話といっても良いくらいの場面であると思うたものでして。
そももそも、私は毎食唱えている食前の言葉、食後の言葉、また、朝の勤行時、仏壇の前で「五観の偈」を唱えておるのですが、とても関係している話でもあるのです。
特に現代社会においては、なんちゃらファーストだの個人主義的な言説や在り方を多く見かける機会もありまして、考えさせて頂ける話に御座ります。
サチのお寺ごはん第5巻の、1話目はこんな感じです。
その後の各話も、仏教を学びながらレシピ・調理法も学べます。
瞑想や坐禅をしている人ならば、第29話の「旬をどうぞ」が、よろしゅおすかな。
お一人様や力んだ単独行動を問う
今回の「サチのお寺ごはん」第5巻にて、私が改めて問うたり考えたりした事柄は、「数多の御縁」と「お一人様の在り方」についてです。一昔前でしょうか、お一人様ブーム的な何かがありませんでしたかな。
先日も、日中法要とミッドナイト念仏in御忌に行くために四条河原町を通ったのですが、お一人様カラオケなるものがありましたし。
まあ、お一人様、単独行動というのは、魅力を感じる人がいるのも、わからんでもありません。
私も映画は一人で観に行きますし、冒頭で話題にしたミッドナイト念仏も、一人で行って一人で帰ってきましたからね。
ただ、私が一人で、単独行動で映画を観に行ったり別時念仏会や仏教の行事に参加するのは、「お一人様でなければならない!」と力んでやっているのではなく、結果として一人で行っておるだけです。
「サチのお寺ごはん」では、色々あったサチがお一人様、一人で生きていくような在り方になっていた場面は、何かこう、不自然さや力みを感じたものです。
これは漫画の話ではありませんが、実際、お一人様を掲げている人は、サチの事を笑えないのではないか、と思うたものです。
実際に読んでみて、「あ、これ私が陥っているやつだ」と、思う人も、いらっしゃるんじゃありませんかな。
「自力で稼ぐ」「個人主義の時代」「お一人様」とは言うけれど
私は、「サチのお寺ごはん」5巻の1話目を読んで、上述した事柄の他に、巷で言われている事柄、特にインターネットビジネスと言えばいいのでしょうか、その界隈で言われている言説についても、考えたものでありまして。某大統領や某知事が「なんちゃらファースト」と何度も言うたり、ビジネスの世界では「自力で稼ぐ」「個人主義の時代」と言う人を見かける事があります。
もう会社が守ってくれる時代は終わった、だから副業だのなんだのして自力で稼ぐ力をつけるんだ、等々。
まあ、言わんとしていることはごもっともです。
在家で生きる身としては、身にしみている事、身を持って感じておる事柄でもありますし。
仏教、禅の言葉に「他は是我にあらず」というのがあり、自身の食い扶持を自身の労によってまかなうというのは、わかります。
ただ、自力で稼ぐとか、個人主義とは言うけれど、実際にところはどうでしょうか。
ちょいと運良くビジネスだのが上手くいくと、それを「俺様の実力で、自力で稼いだ」と思うようになり、それが慢の煩悩が燃えさかる因となり、たちまち滅した者達を幾人か観ておりまして。
他者意識が完全欠如しているのに、「記事はお客様目線で書け」とお客様に偉そうに抜かして自滅したり、ね。
まあ、自滅した我利我利亡者なる詐欺師への嫌みはこれくらいにして。
この、「自力で稼ぐ」「個人主義」「お一人様」を、サチのお寺ごはんを読んだ御縁で色々と改めて考えたわけですが。
このことについてのカウンターと言いますか、はっと気づかせて頂ける話が、松村圭一郎さんの「うしろめたさの人類学」に書かれております。
その部分を引用させて頂きますね。
日本ではみのまわりのことでも、すべて他人の労働を金で買って済ませる。
(中略)
個々人が好き勝手に生きる個人主義なのに、高度に他人の労働に依存している。
※松村圭一郎さん「うしろめたさの人類学」157頁より引用
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私が「お一人様」や「個人主義」、「自力で稼ぐ時代だ」と息巻いたり、時にはイキったりしておる言説垂れ流す輩について思う違和感と問いを、見事に言い当てられたものであるなあ、と頂いた事に御座います。
もっとも、偉そうに抜かす私ではありますが、「うしろめたさの人類学」に書かれている事は、私にも言える話であるのですがね。
私も、一人でロードワークをしておるのですが、確かに誰かと一緒に走ってはおりませんが、そのロードワークを支えて下さるのは、数多の縁あってこそ。
走るための靴を作ってくれたり、衣類を作ってくれたり、その衣類を私が購入できるように販売して下さる方々、運んで下さる方々、等々、どれだけの御縁にお支え頂いているのか、計り知れません。
確かに、「走る」という意思を持って、習慣化して走っているのは私の肉体です。
ただ、そのロードワーク、走るという行為をお支え下さっているのは、数多の縁です。
地面もそうですね、道を調えて下すった先人がいたからこそ、走る事が出来ているのですから。

その「お一人様」や「個人主義」は、身勝手な自分都合の独り善がりではないかを改めて問う
私の経験も踏まえて、「サチのお寺ごはん」に話を戻しますと。確かに、「自力で稼ぐ」という事のために、勉強したり訓練すること、独力を養うことは良い面もあります。
何でも人任せにせず、自身ですべきこと、「自力で稼ぐ」に関して言えば、自身の経済的課題を自身において解決していくという意味における「自力で稼ぐ」は、良い方面の意味で使われておるのでありましょう。
ただ、それに「他者意識」であったり、「俺様気質」と言いますか、慢の煩悩を燃やすような在り方では、具合が悪いかと存じます。
例えば、私でしたらプログラミングを学び実践しており、これが現世利益を頂く御縁となったとしても、それを実現するためには、誰かがこうして作って下すったPCなりマウスを使っております。
そういった物質、装置を作って下さった方々の御縁と結ばれねば、実現せぬ事です。
「お一人様」にしても、そうでありましょう。
「一人で読書」をするにしても、読書するその本は、どのようにしてそこにあるのでしょうかな。
どのような御縁によりて、そうして「一人で読書」が実現しているのか、改めて考えて観ては如何でしょうか。
読書に限らず、「一人で焼肉」も「一人で映画」も。
店員さんとのやり取りがありましょうし、その時点で「お一人様」と言い切るのは、ね。
「お一人様」や「自力で稼ぐ」も「個人主義的な在り方」を支えているのも、数多の御縁なってこそであると、現時点で私は頂いております。
それを観ずして、一匹オオカミ気取りというのは、ただの「独り善がり」になってしまっておらんか、と思う事も御座います。
まさに「「お一人様」とは何様か」といったところで御座います。
そのような在り方というのは、それこそ、サチのお寺ごはん5巻で源導さんがサチに諭された言葉が突き刺さるところではなかろうかと存じます。
源導さんは、こう言います。
そこに目をつむってひとりで生きていけるなんて少し身勝手すぎではないですか?
※「サチのお寺ごはん」第5巻第25話より引用
詳しくは、本書を読まれると宜しいかと存じます。
ちなみに、私は「サチのお寺ごはん」という漫画の存在を、東本願寺文庫にて知りました。
最新刊も、そのうち入れてくれるかな、と思うのですが、そこは東本願寺文庫のスタッフにお任せするしかありません。
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上は5巻ですが、1巻から読みたいという方は、本屋で探して、一度中身をぱらぱらと観てから決められると宜しいかと存じます。
楽天ポイントがたまってて、オンラインで購入したいという人のために、リンクだけ張っておきます。
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ちなみに私は、本を購入したりと色々とポイントがたまっていたから、楽天ブックスで購入致しました。
楽天ポイント、地味に有り難い。
仏教の「食前の言葉、食後の言葉」「五観の偈」と:まずは「いただきます」を見直しませんかな
今回は、「サチのお寺ごはん」という、仏教関連の漫画から、私が不断考えていることと、改めて考えたをお伝え致しました。最後に、食から御縁の有り難さを味わう話をば。
上述した通り、私は食前と食後に、「食前の言葉」「食後の言葉」を唱えます。
私の場合は浄土宗の形式ですが、宗派によって、また違う味わいの言葉が御座いますね。
ちなみに、真宗大谷派の食前・食後の言葉と浄土宗の食前・食後の言葉は、似ていると観じております。
私が味わい深いと思い、毎日唱えている食事関連の偈には、禅宗で唱えられている「五観の偈」が御座います。
この事については、浦崎雅代さんが記事にして下すった話のところで、お伝えしたから、そちらを参照して頂ければと存じます。
参照記事:「「いただきます」を味わう|食に関わる者の姿勢を浦崎雅代さんの記事に学ぶ」
参照記事2:「「させていただく」「お育ていただく」の3つの効果|謙虚な姿勢を育む智慧なり」
参照記事にもある通り、仏教の食前・食後の言葉を紹介しましたが、まずは「いただきます」を見直すところから始めては如何でしょうか。
数多の労を、数多の命にお支えとお育てを頂いている身であることを観ようともせず、独り善がりの「お一人様」を演じていないか、今一度問う事。
「サチのお寺ごはん」から、このような問いを頂いた事に御座ります。
合掌、頂きます、ご馳走様でした、礼拝