Temple@瑞泉寺(小出遥子さん主宰)に参加してきました|感想文的なレポートと帰り道で気づいた事

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



本日、平成29年6月16日(金)、私は小出遥子さん主催の「Temple@瑞泉寺」に参加して参りました。

「Temple」とは、小出遥子さんが現在から遡ること2年半ほど前から取り組まれている活動で、「いのちについて語ろう」という趣旨の活動だそうです。

「だそうです」としか申し上げられないのは、私は今回が初参加で、参加した経験を持ったという今でも、きちんと解説出来るくらいの能力を持ち合わせておらんからでして。



Templeの活動は、以前は東京中心だったそうですが、現在はこのように、京都でも開催されるようになり、どうやら着実に活動範囲が広がっているご様子です。

次の京都開催は、予定では2017年7月9日(日)に、法然院でという事で、連続して浄土宗寺院という事もあり、念仏を毎日唱える私としましては、興味引かれるところに御座います。



今回は、京都で初めてのTemple「Temple@瑞泉寺」に参加してきました事の、感想文的なレポートを綴ります。

また、その帰り道で気づいた事も、お伝え致します。

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Temple@瑞泉寺の感想文的レポートの前に:Templeと小出遥子さんについて

Temple@瑞泉寺に参加して、その感想文的なレポートをお伝えする前に、まずは「Templeと主宰の小出遥子さん」について、手短にお伝えしておきます。



冒頭でも少しお伝え致しましたが、Templeとは、小出遥子さんが主宰の「いのち」を主題と言いますか、テーマとして真ん中に置いた活動で、主な活動は寺院などで対話をする、というものです。

あくまで対話の場であり、議論をしたり、価値観を押しつけたりする場ではなく、その場その瞬間に沸き上がってくる事や立ち上がってくる言葉との、一期一会を味わう場、と言うと、伝わりますかな。

今回の「Temple@瑞泉寺」も、そのような感じで進みました。



Templeの主宰である小出遥子さんは、以前は美術系専門図書館の司書をされていて、現在はフリーランスとして活動されています。

活動として、今回のようなTempleを開催されたり、「教えてお坊さん!「悟り」ってなんですか」等の本も出されていて、著述家としての活動もなさっている方です。



私も「悟りってなんですか」を購入して読みまして、その御縁もあって、今回のTemple@瑞泉寺の参加という御縁に結びついた次第で御座います。

私、この本の絵、実は結構好きでありましてね。



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その他の情報につきましては、こちらのTempleのウェブサイトを参照して頂く方が、手っ取り早いでしょう。



参照先:「Templeのウェブサイト」



このウェブサイトのコラムは、ほぼ毎朝、小出遥子さんが綴られています。

私も読ませて頂いており、学び多き、それでいてなんだかほっと癒される、そのような文章を味わっておる次第で御座います。



このような活動をされている小出遥子さんが主宰の、Temple in 京都。

Temple@瑞泉寺の様子と、その帰り道で気づいた事を、お伝えしていく話に進みましょう。

Temple@瑞泉寺に到着:本堂に入って、いきなり愚行やらかす私

今回、Temple@瑞泉寺がTemple初参加の私は、以前から本やブログを読ませて頂いておりました御縁からTempleと小出遥子さんの活動を知ってはおりまして。

そのような最中、京都で開催されるという事により、軽いノリで行く事にしまして、早速参加の手続きを取って、当日までに予習を致しました。



今回は、瑞泉寺にて、中川住職と予習する事となる記事にて、小出遥子さんと対談された、小竹めぐみさんが参加される予定でしたが、小竹めぐみさんは諸事情により、参加されないこととなりました。

そして、当日、つまりこのレポートを書いている日がやってきて、いざ、京都の三条通りを少し下った、祇園にあります瑞泉寺へ。



現地では小出遥子さんが、写真で拝見したような、ふわっとしたあたたかい笑い顔で出迎えて下さり、私がいつもやっているように合掌すると、小出さんも合掌で返して下さいました。

小出遥子さんについては、物腰が柔らかくて、観音菩薩的な印象を持ったものです。



挨拶をしてから、受付で名前を言うと、「あ、修羅観音さん」と、またしても気づかれまして。

プラユキ・ナラテボーさんの時に続き、ここでも私のことを、すでに存じて下さっていた御縁に、感謝致しましたもので御座います。



さて、受付で軽い自己紹介が終わって、本堂に案内して頂いたのですが、そこで私、初っぱなに愚行なる事をやらかしてしまいました。



本堂を少し観て回っていた時に、ふと外に賽銭箱がありましてね。

「布施行布施行」と、賽銭箱に賽銭を入れに行こうと、そちらに進んだ瞬間。



ガン!



っと、けたたましい音を立てて、ガラス窓に頭をぶつけてしまいましたがな。

もの凄く綺麗なガラス窓、本当に透き通るようなガラス窓に、全く気がつきませんでして。

いつもこの寺院(ブログ)にて、「気づく事が大切です」と、偉そうに抜かしておきながら、当の本人は、目の前のガラスに全く気づく事がなかったと言う愚かっぷり。

まさに、愚人、凡夫なり。

阿弥陀仏の前で、何をやらかしておるのやら。



法然上人は、「悪人善人愚人もひとしく念仏すれば往生する」と、教えて下さいます。

阿弥陀仏は、悪人も善人も愚人も、等しくお救い下さる、ということであります。

と、言う事で、私は阿弥陀仏の前で愚かさを露呈した事により、阿弥陀仏は「しゃーないやっちゃなーこいつ、こういう愚人は救ったらんといかんなあ。」と、呆れながらも救いの眼で観て下さいましたかな。



ガラスが割れなかったのが有り難き事ですが、あの場にいた人を驚かせたでしょうし、中川住職には申し訳ない事で御座います。



頭をぶつけた時は結構痛かったけれども、自分で綴った「痛みに苦しむのではなく、痛みを観る人」の智慧を思い出して、精神は事なきを得ました。



ちなみに、ぶつけたところは帰って風呂上がりに鏡を見ると、少し赤く腫れておりまして、結構な威力で頭をぶつけたようです。
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Temple@瑞泉寺では般若心経とお念仏を称えて始まり、3人から4人に別れて語り合う

気を取り直して、時間まで私は手動瞑想をしておりまして、時間になってから、小出遥子さんと中川住職の挨拶があり、その後、みんなで般若心経とお念仏を称えました。

本堂でお念仏をする、御経を唱えるという行は、いつも感じる事ですが、厳かで身が引き締まるものです。



お経とお念仏が終わって、事前に読む事をアナウンスされていた、小出遥子さんと小竹めぐみさんの対談記事について復習があり、その後、いよいよTempleの少人数に別れての語り合いへ。

Templeでは、3人から4人のグループに分かれて、「いのち」をテーマにしたり、予習的に読んだ記事を足がかりとして、「いのち」について語り合うという趣旨が御座います。



私は初参加であり、そもそも「いのち」について、明確な定義もしておりませんし、よくわかっておりませんが、とにかく耳を傾けて、語るときには語ってみよう、という事で進む事に致しました。

あまり肩肘張らずに、だからといって雑にならずに、という塩梅で。



ちなみに、私は事前にノートにまとめたり、瑞泉寺へ行くまでに途中で東本願寺文庫に寄り道して予習もしたのですが、その予習で学んだ事は一切使う事は有りませんでした。

その上で、とにかくTempleの場で、ざっくばらんに皆様方と接する事と、相成りました。

Temple@瑞泉寺で語り合う:そこで気づいた事

前半は、應典院の若きお坊さんと、密教や陰陽五行思想にお詳しい方と、私との3人グループで、対談が進みました。



前半においては、「いのち」について語るという趣旨はあれど、実はあまりそこまで「いのち」についての話にはならず、現代社会と宗教であったり、そういった内容についての話をしておりました。

私からは、学生時代と、今の仏教と再会してからの変化など、そういった話もしてみたり。



前半のグループでは、私が全く知らない世界の話をして下さったりと、全く違う世界を知る善き縁となり、非常に学び多き、濃密な時空間を共有して頂きました事に御座います。



後半はグループを変えて、今度は4人で語り合う事と相成りまして。

後半では、写経の経験豊富な方々と医師、そして私という組み合わせに。

人生経験豊富な方から、色々と話を聞く事が出来て、後半は殆ど聴く側に回っておりました。



そうして、時間が来て、小出遥子さんと中川住職から挨拶があり、Temple@瑞泉寺は修了。

アンケートを提出して、最後に小出さんと挨拶を交わしてから、帰路につきました。

Temple@瑞泉寺に参加したからこそ気づいた事・出会えた事

今回の「Temple@瑞泉寺」は、厳かな本堂の雰囲気と共に、時には笑いも起こったり、談笑も味わえるという、味わい深い時空間を体験する事となりました。

そしてこれは、小出遥子さんと小竹めぐみさんが、「小竹めぐみさんとの対話/いのちは凸凹(でこぼこ)だからこそ愛おしい」で仰っていた言葉を、体感した事でもあります。



参照先:「小竹めぐみさんとの対話/いのちは凸凹(でこぼこ)だからこそ愛おしい」



お二人の対談記事に、このような言葉が御座います。



「起こすもの」ではなく「起こるもの」



私は確かに、Temple@瑞泉寺に向けて、記事を読んでノートにまとめたりなど、予習はしておりました。

でも、物事に取り組むに当たり、予習する事は確かに大切ですが、現場で「起こるもの」は、人の力及ばぬ事も多々御座います。



そもそもとして、私が今回のTemple@瑞泉寺に参加するに至った経緯も、「起こした事」ではなく、「起こった事」でしかなかったのかもしれません。

今回のTemple@瑞泉寺でのグループ対談は、前半も後半も、予定していた通りとは違い、確かにあの場で「起こるものが起こった」という、そのような事を感じたものであります。



「起こすもの」ではなく「起こるもの」は、小出さんと小竹さんの対談を読んだ時に「なるほどなあ。」と思うておりましたが、今回の体験から改めて、肌感覚として「なるほどなあ。」を、感じるに至ったもので御座います。

Temple@瑞泉寺にて、改めて「聞き手」という在り方が性に合っていると再確認

今回のTemple@瑞泉寺に参加した事により、改めて気づいた事に、私の性分が御座います。

在り方や性分と言いますか、そのような部分に気づきましてね。

これは、「私はこういう奴だ、私はこうあるべきだ、だから私に対してあなたはこう思うべきだ」とか、そういう話ではありません。

私の性質と言いますか、何となく「こういう性分や属性が、ぼんやりとありそうだな」という、そういうやんわりとした感覚です。



私、Temple@瑞泉寺にて、後半では特に、聴く側に回っておりました。

これは、話したくなくてそうなったのではなく、マシンガントークで圧倒されたとか、そういう事ではありません。

そういうネガティブな側面からではなく、純粋に「話が面白いし興味深い」という事から、ついつい聞き入った、という事です。



Temple@瑞泉寺で私とグループを組んで下さった方々は、色々な情報であったり、私の知らない知識を伝えて下さり、思わず聞き入っておりました。

皆さん親切な方々で、気を遣ってか、時々私に話を振って下さいましたが、すぐに聴聞モードになっておりましてね。

いや、ほんと、本当に興味深い話をして下さるんですよ、しかも学び多き話ですし。



語り合うという趣旨が、聞く方に回る事がしばしば、という私。



後半のグループでは、内観法や森田療法の話をして下さいましてね、森田療法の名前は知っていたけれど詳しく知らなくて、しかも医師からその話が聞けるとか、うつ病等の経験がある私としては興味かき立てられまくるわけでして。



そういう経験を経て、改めて私は「聴聞したがる性分であるなあ。」と、自身の属性や性分を再発見、再認識させて頂けた次第で御座います。

なんと言いますか、純粋に「聞きたがり、聞きたい性分」なんだなあ、と、終わってから、改めて気がついたものです。



そしてこのことから、私が勝手に西尾維新さんの物語シリーズに登場する、忍野扇が自身を「ありとあらゆる物語の聞き手」と表現していますが、それを模した在り方が、やはり性に合っているな、と、気づかせて頂きました。



「ありとあらゆる言説の聞き手、あらゆる仏法の聞き手」



「いのち」について語り合う場で、自身の性分を観る御縁賜るとは、有り難き良縁なり、Temple@瑞泉寺に感謝するところに御座います。合掌。

Temple@瑞泉寺の帰り道で試したこと、気づいた事

このような、非常に濃密で気づきと学びの良縁を頂けたTemple@瑞泉寺、全てのプログラムが終了してから、帰路に就きまして



帰り道で、私はふと、Temple@瑞泉寺に参加するにあたり、事前に読む事になっていた、小出遥子さんと小竹めぐみさんの対談記事を思い出しました。

そこには、「花は、すでに咲いていた」という箇所がありまして、それをふと思い出しましてね。

そこで、普段なら歩行瞑想をするところを、「すでにあった物事に、気づきながら帰ってみよう。」と思い立ちまして、それを行ずる事にしたのです。



そうすると、このような気づきがありまして。



私は、三条通りに一旦上がって、そこから西へ向かって歩いて行き、新京極通りを南へ進むルートを歩いて帰っておりますと、ふと、見慣れない建物がありました。

新京極通りには、MOVIX京都の近くに、浄土宗のお寺「誓願寺」があります。



その目の前くらい位置に、今まで気がつきませんでしたが、いつの間にやら、ホテルが建っておったのです。

いつもなら素通りしておったでしょうが、「花は、すでに咲いていた」という言葉の御縁から、「ああ、ここにホテルが出来ていたんだ。」と、気づくに至ったわけです。



そしてこの時に、ふと、こういう事も頭に浮かんできました。



「確かに、今、私はこのホテルに出会ったけれども、ホテルそのものは、私が知らない間に、きちんとすでにここに建っていた。」

「私が来なかった、また、素通りしたから、出会わなかっただけであって、ホテルは、すでに建っていた。」



このような事に気づいて、私は改めて、小出遥子さんと小竹めぐみさんの対談にある「花は、すでに咲いていた」を、この身で体験したような、そんな感覚が芽生えたものです。



「すでにそこにある物事に、気づくかどうか」



これは、「今、ここ」から遠ざかっている事によって、右往左往していたり、悪者探しに興じたり、無い物ねだりをしている状態の人には、妙薬ともなるであろう智慧であると、私はお味わいを頂いております。

Temple@瑞泉寺の場と、帰り道という場

このような事に気づきつつ、京都駅辺りまでやって来た時、またしても、気づく事が御座いました。



私は、横断歩道の先にあるコンビニエンスストアが見える場所で、信号関わるのを待っておりまして、変わってから、一歩踏み出した時の事です。

この時、私はふと、「そういえば今日、さっきまで、確かにTemple@瑞泉寺に参加して、瑞泉寺におったなあ。」という事が浮かんできました。



そして、次の瞬間、こう思うたのです。



「今、こうしてコンビニエンスストアを目の前にして、横断歩道を渡っている私は、あの場の私との関係とは、是如何に?」



ここまでの考えが浮かんだ後、



「あの場での物事の起こりや私は、ああでしかなく、この場での私も、こうでしかない、ということだろうか。」



「ああ、「あの場」はすでに過去の事で、「今、この横断歩道を渡っている私」は、今を確かに生きている。今のいのちという事であろうかなあ。」



と、こんな事を考えたものであります。



なんでしょう、こう、私も、上手く言語化出来ませんし、今もなんだか、あの時の感覚感性を、表現しきれて射ないという自覚があるのですが、とにかくこんな感じの気づきがあったのです。

そして、これらをひっくるめて、私はこのように感じたのです。



「ああ、そう。そのようであるなあ。」



本当に、「ああ、そう。そのようであるなあ。」としか言いようがありませんが、なんでしょうか、確かにこう思えるのです。

そしてこれは、投げやりな感じではなく、上手く言語化出来ないし、感覚を伝えられないのですが、妙に「すっ・・・とした感じ」と言いますか、そのような感じを覚えましてね。



私は、「いのち」については、語れるとは思うておりませんし、定義も出来ておりません。

ただ、帰り道での体験は、もしかしたら、「いのち」に、何らかの形で触れられた一瞬だったのやもしれません。



上手く言えませんが、いつ、どの場面でかは個体差があるとしても、私が感じたあの感覚と出会える御縁を、Temple@瑞泉寺にで小出遥子さんが授けて下さったのだろうか、そのように思う事で御座います。



なんとも不可思議な体験を頂けて、善き縁を頂けた、そのように思えた一日でありました。



合掌、礼拝



:追記:

法然院でのTempleも視野に入れてはおりましたが、瞑想会が近場で開催される予定があり、日付がバッティングするようでして、私は瞑想会へ行くことに致します。

Templeの御縁は、またの機会にて。

合掌

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