「いのちの最後の授業」読書感想文:前編|カンポン・トーンブンヌムさんから頂く仏法と智慧

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



私はプラユキ・ナラテボーさんとの有り難き御縁あって、プラユキさんと浦崎雅代さんが翻訳された、カンポン・トーンブンヌムさんの本を読む御縁結ばれました。


その本は「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」といいまして、以前にも読書感想文と共にお伝えしております。



そして今回、カンポン・トーンブンヌムさんの教えを浦崎雅代さんが訳して下さり、一冊の本になり発刊されました。

本の題名は「いのちの最後の授業」です。



「いのちの最後の授業」は、プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんが東京での対談に参加された方や、オンラインで予約購入した人ならば、もう読み終わっていらっしゃるかと存じます。

私も購入し、カンポン・トーンブンヌムさんの教えと智慧の本「いのちの最後の授業」を読み終えまして。



今回は、「いのちの最後の授業」の読書感想文と題しまして、感想と共に、私が受け取り、頂いた教えと智慧について、お伝えしていきます。



注意事項と致しまして、知的財産権・著作権の事がありますから、引用は最低限に留めます。

今回の話から本を読みたいと思われた方は、通信販売にて購入することも出来ますし、大きな本屋ならば取り扱っている可能性もありますがゆえ、そちらで確認されると宜しいかと存じます。

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「いのちの最後の授業」を読み終えて:日常に生かされる智慧と教えと、私も「まさに」と思うた箇所

カンポン・トーンブンヌムさんの教えが記されている、浦崎雅代さんが訳して下さる「いのちの最後の授業」につきまして。



カンポンさんの詳細、所謂プロフィールにつきましては、本の最後に年表になって紹介されておりますから、ここでは簡単にだけお伝えしておきます。

以前も話しましたから、そちらも読んでおいて頂くとわかるかと存じます。



参照記事:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」



カンポン・トーンブンヌムさんは、学校教諭時代に、事故で全身麻痺に見舞われます。

その後、苦しむ日々を送る最中に、スカトー寺のカムキエン師と出会われ、気づきの瞑想によって「苦しむ人」から「苦しみを観る人へ」となられます。

そうして、最後の瞬間まで、いえ、現世から去られた後も、「いのちの最後の授業」や動画を通して、私達に仏法を、智慧を伝え導いて下さっています。







御縁あって、私も読むこととなりました「いのちの最後の授業」。

この本は三つのパートから成っており、前半は短めの文章でカンポン・トーンブンヌムさんの教えが紹介されております。



この前半部分について、私は「今すぐ日常に活かせる智慧」と思うたと共に、「まさに私がやらかしている事」や「出来ておらんから調えるようにせんと」と思うた事に御座ります。

その幾つかを紹介致しましょう。

カンポンさんから頂く智慧・教え1:失敗したりやらかす時は大体、気づきを疎かにしている時

「いのちの最後の授業」から頂いた智慧・教えは数在れど、その中から特にと思うた事柄について、私の反省と共にお伝えすることにします。



その一つ目。



「失敗をする時や、何かやらかす時は、大体、気づきが間に合っていなかったり気づきを疎かにしている瞬間」



これは、36頁の項目です。

本をお持ちの方は、確認して頂ければと存じます。



この箇所を読んだ時、「まさに私が、プラユキ・ナラテボーさんから気づきの智慧や瞑想を教わってから、何かをやらかした後で気づいておる事だ。」と思うたものです。

まあ、それでも失敗続き、何かやらかしているのは、全然気づきが足りていないという事が現在進行形だからなのですがね。



例えば、物を落としたりひっくり返したり、出かけた後などに「あれ?ドアの鍵閉めたっけな?」とか、そのような事って、あなたにも経験ありませんかな。

現代において典型的な「気づきが足りていない状態」を言うならば、歩きスマホ辺りでしょうか。

今、自身が歩いていることに、自身の肉体がどのような状態であるか全く気づかず、次の瞬間には事故になっているとか、ニュースになる事もありましょう。

テレビを視聴しながら食事をして、皿をひっくり返したりするのも、気づきを疎かにしている瞬間に起こった出来事と言えましょう。



こういう日常の失敗と言える事も、よくよく観察(かんざつ)すれば、気づきが足りていない事であると見えてきますし、そういう場面は往々にしてあるのではなかろうかと存じます。



この解決策につきましては、私が珈琲をいれる時に、一つ一つの所作に気づきを伴わせる事で、気づきを疎かにする事による失敗する確率を下げられることを、お伝えしております。



参照記事:「丁寧な暮らしがマインドフルネス瞑想で実現しやすくなる理由|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想から気づいた事」



この、カンポン・トーンブンヌムさんの「気づきを疎かにしている時は最も危険な時」という教え、侮ることなかれ。



珈琲をいれる時に気づきを疎かにして珈琲をひっくり返した場合、勿体ない話ではありますが珈琲をひっくり返すくらいですむ話ではありましょう。

しかし、これが車を運転している時等、非常に危険を伴う場面でしたら、人様をも巻き込み、大惨事となり得ます。



私はこの教えを読んだ時、「気づきを疎かにする事は、危険な瞬間と縁結ぶ事になる」と、改めて思うた事に御座います。

カンポンさんから頂く智慧・教え2:プラユキ・ナラテボーさんが教えて下さる「慈悲」と「随喜」に通ずる話

カンポン・トーンブンヌムさんの教えの中で、特に目がとまった箇所の二つ目。

それは、本の44頁にある「幸せを分かち合う友だち」という箇所です。



この箇所は、仏教・仏法を学んだ人ならば、ピンときたところではなかろうかと存じます。

私は、カンポンさんのこの教えを読んだ時、咄嗟に「あ、プラユキ・ナラテボーさんから教わった事であるなあ。」と、思い出したところでもあります。



と、いいますのも。



「いのちの最後の授業」44頁には、「苦しむ人を見たら、苦しみから離れる手助けをしたくなる」「誰かが幸せであるのを見たら、自身も共に嬉しくなる」という趣旨の話がありまして。

これは「慈悲」と「随喜」の話だ、と、思うたのです。



「慈悲」とは、プラユキ・ナラテボーさんが瞑想会等で教えて下さる「抜苦世楽」に直結する事柄です。

「慈」は、友人という意味や、安楽を与えたいという意味があります。

「悲」は、共に悲しみ、抜苦の意味があります。

カンポンさんが伝えて下さる事とも、通じているという事がわかります。



また、44頁の後半部分、「誰かが幸せであるというのを見たら、自身も共に嬉しくなる」という部分は、「慈」と共に、「随喜(ずいき)」も連想致すところで御座います。

「随喜」とは、相手の幸せを喜んだりする事と、プラユキ・ナラテボーさんから教わった事がありまして。

プラユキさんは、随喜を「glad together」という言葉で説明して下さっています。



現代社会においては、他者の成功を妬んだりする事もありましょう。

よくあるのが、他者ができる事をうらやましく思いすぎるあまりに妬みまで言ってしまったり、他者だけが評価されて自分は評価されなかったり、等々。



そんな時、カンポン・トーンブンヌムさんとプラユキ・ナラテボーさんの教えは、自他の抜苦世楽に向かう妙薬になろうかと思います。

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「思考にはまる人」から「思考を観る人」へ:「苦しむ人」から「苦しみを観る人」へ

カンポンさんの本を通して頂いた教えの一つに、「苦しむ人」から「苦しみを観る人へ」というものが御座います。

これは、以前にお伝えしたカンポンさんの本「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」にも書かれており、カンポンさんに瞑想を伝授された、カムキエン師が教えていらっしゃる事柄でもあります。



この「苦しむ人」から「苦しみを観る人へ」という智慧は、「いのちの最後の授業」にもありまして。

それは、第2章の「思考を観る人」という項目、ページ数で言えば144頁に御座ります。

この項目は、思考止まぬ現代と言いますか、思考が次から次へと沸き上がり、そこにはまり込み、それについて無自覚である一人一人が読むべき妙薬的項目ではないかと、思うた程です。



「思考を観る人」とは、どういう事か。



最近、「人間は一日の内に何万回も思考している」と言う話を見聞きするようになりましたが、まあ、それくらい色々と思考、思い考えておるようです。

具体的な数値は個体差がありましょうが、確かに、私も朝起きてから夜寝るまで、色々と思いふけったり考えたりしてるなあ、と、自分事として頂く事に御座います。



私に至りましては、手動瞑想や坐禅をしている最中でも、思考が沸いてくる、という始末。

時には、「そういえば、あの頃はあいつにあんな事されたなあ・・・くそう!許すまじ!」と、はまることもあります。



カンポン・トーンブンヌムさんも、カムキエン師と仏法に出会われる前は、事故の事を何度も思考したそうです。

しかし、気づきの智慧、気づきの瞑想と出会われてからは、思考に囚われず、「今、ここ」に生きるという事を体現されるに至り、「思考が観える、思考を観る人」と成られたと、本の内容から読み取りました。

思考してもはまらずに「観る人」となる智慧

ここで私は、「思考をする事それ自体が悪いのではなく、はまり込む事によって苦を増幅されてしまうから、観る人となる智慧が肝要である。」と、解釈致しました。

これは、カンポン・トーンブンヌムさんが伝えて下さるメッセージを、私なりに解釈して言語化したところです。



これはあくまで私の感性と読解ではありますが、カンポンさんは、思考を悪者扱いして、「思考するな」と仰っているのでは無い、と思うております。

思考悪玉論にしてしまうと、建設的思考、哲学的思索さえも否定してしまうことになりかねません。

そうではなく、思考が沸いてきて、その思考はまり込む前に「気づきが間に合う」ようにする、この事が肝要であると伝えて下さっているのではないか、と思うのです。



物凄く単純化した例を申しますと。



珈琲を入れている時、コップをひっくり返して床にぶちまけたとします。

ここで思考にはまると・・・。

「うわ、こぼした→、ああ、勿体ない→大体、このコップの構造が悪いんだ→床を拭くの面倒だなあ。」と、どんどん思考していく。

そして、その後も「ああ、あの珈琲は勿体なかった→床も汚れたし→なんな珈琲観る度に思い出しそう→大体、云々・・・」と、後日、またはまり込む。



まさに、「思考になっちゃう人」「苦しむ人」の典型と言えましょう。



そこで、どこかの段階で「気づき」によって「思考を観る人、思考にはまり込もうとしている自身に気づき、自身を観る人」になる事が肝要なのではなかろうか、と思うのです。

「うわ、こぼした→ああ、勿体ない」の間で、「あ、今後悔の思考が始まりそうになったぞ。」と気づく。

珈琲をこぼしたという事実を受け取り引き受け、すぐにコップを回収して床を拭き取り、「コップを気づきを疎かにして持たず、きちんと意識して持つ事。」とする。



かなり単純化した例ではありますが、生活の中でこれを繰り返すことにより、思考にはまり込む前に、気づきが挟み込まれ、思考はまり込みからの解放(ルット・ポーン)に至るのではなかろうか、そのように観じました。



私は、まだまだ気づきが間に合わない事が常でありますが、手動瞑想や呼吸瞑想、坐禅を継続しているからか、気づく事も出てきて参りました。

先日も、信号待ちで「待たされている」と思うのではなく、スティサート師の瞑想会in沖縄の動画で学んだ「立って行う手動瞑想」の指動版をやってみたりと、継続しているからか、間に合う場面と縁結ばれる回数も増えてきた気が致します。

カンポン・トーンブンヌムさんの「思考を観る人、苦しみを観る人」という在り方は、これからも実践を通して薫習していくように調える事に御座ります。





このような教え、仏法・智慧が詰まっている一冊、「いのちの最後の授業」。





本書には、プラユキ・ナラテボーさんの文章も掲載されており、読むことが出来ます。

浦崎雅代さんが訳して、私達にカンポン・トーンブンヌムさんの智慧、仏法を伝えて下さっている本といえば、こちらもあります。



「いのちの最後の授業」を読まれるなら、こちらも合わせて読まれると宜しいかと存じます。

今回は前編:後編もあります

今回は、カンポン・トーンブンヌムさんの「いのちの最後の授業」について、読書感想文と題しまして、私の反省や気づいた事などを盛り込み、お伝え致しました。



こうして、日本にいながら、遠く離れたタイのスカトー寺の仏法を、カンポンさんという在家にて修行をなされ、仏法を伝えて下さる方の教えや智慧を頂けるのは、大変有り難し、感謝申し上げる次第で御座います。

翻訳して下さる浦崎雅代さんに、感謝申し上げるところです。



そして、今回の話の表題にもある通り、今回は前編です。

前編と言っている通り、後編も御座います。



後編では、カンポンさんと御縁のある方々の文章と、浦崎雅代さんの後書きから学び、自身に刺さったところ、痛感した事柄についてお伝え致します。



カンポン・トーンブンヌムさんのメッセージだけでなく、翻訳された浦崎雅代さんの「おわりに」からも、パイサーン・ウィサーロ師やプラユキ・ナラテボーさん、スティサート師からも教えを頂ける一冊であるなあと、ここまで書いていて、改めて思うところに御座います。



合掌、礼拝

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