「いのちの最後の授業」読書感想文:後編|比丘と浦崎雅代さんのメッセージに学ぶ

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



前回は、浦崎雅代さん訳の本、カンポン・トーンブンヌムさんの「いのちの最後の授業」を読み終え、読書感想文と題しまして、前編部分をお伝え致しました。






「いのちの最後の授業」は、前編でも申し上げました通り、大きく三つのパート、第1章から第3章まで御座います。

前編では、主に本書の第1章と第2章で、私が学び気づき、改めん、調えんと思うに至った事柄をお伝えした次第であります。



参照記事:「「いのちの最後の授業」読書感想文:前編|カンポン・トーンブンヌムさんから頂く仏法と智慧」



第3章は、カンポン・トーンブンヌムさんと御縁深き善友の方々からのメッセージが掲載されています。



私も直接教わっているプラユキ・ナラテボーさんをはじめ、スカトー寺のパイサーン・ウィサーロ師や、浦崎雅代さんの翻訳中継をして下さり共に瞑想をする御縁を頂いたスティサート師。

日本からライトハウスへ足を運ばれ、直接カンポン・トーンブンヌムさんに会われた善友の方々。

浦崎雅代さんのツイキャスを、友に聴聞されている、タイで日本語の先生をされている長尾俊哉さんのメッセージ等々。



カンポン・トーンブンヌムさんと御縁ある善友なる方々の話からも、私は大切な教え、仏法や智慧を頂くに至りました。

そして、後書きでは、「ああ、まさに私の事である」と、痛感した浦崎雅代さんからのメッセージも御座います。



今回は、それらの話を進めていくことと致します。

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「法を伝える道具」という在り方:スカトー寺の比丘お三方共通のメッセージ

カンポン・トーンブンヌムさんについて、私が彼の名前を聞く時、同時に連想する事柄は、大きく二つ御座います。



一つ目は、「苦しむ人」から「苦しみを観る人へ」という、カンポンさんからのメッセージです。



そしてもう一つは、こちらです。



「法を伝える道具」



カンポン・トーンブンヌムさんは、ご自身を「法(タンマ・ダンマ)を伝える道具」と仰っていたそうです。

この「法を伝える道具」という事柄については、カンポンさんの本「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」でも、なされた話であります。

「法を伝える道具」については、カンポン・トーンブンヌムさんに気づきの瞑想を伝授された、カムキエン師も体現された事柄でありまして。

カムキエン師も、「苦しむ人」から「苦しみを観る人」と、自らを法を伝える道具としての生き方を、その人生で最後の瞬間まで伝えて下さった事、サンガジャパンvol.4に掲載されている、浦崎雅代さんの話から頂きました。



参照記事:「身体を仏法を伝える道具とする事と苦しみを観る人の話|浦崎雅代さんの記事(別冊サンガジャパンvol4)に学ぶ」



話の途中ですが、今回の私の話、前後編と、カンポン・トーンブンヌムさんの「いのちの最後の授業」を読まれるなら、別冊サンガジャパンvol.4の浦崎雅代さんの記事も読まれると、より宜しいかと存じます。

カンポンさんについての事柄と、カンポンさんに仏法を伝えられ、プラユキ・ナラテボーさんやパイサーン・ウィサーロ師の師でもあられるカムキエン師について書かれております。



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話を戻しまして。



カンポン・トーンブンヌムさんは、ご自身を「法を伝える道具」として生きられ、最後の瞬間まで、そして、その後も、こうして法(タンマ)を伝えて下さっています。

カンポンさんが説かれた事柄を、浦崎雅代さんが翻訳して下さり、その翻訳を通して、私にまで届いて下さっている、何とも有り難き御縁でありましょう。

「法を伝える道具」についての話は、パイサーン師の話の他に、同じくスカトー寺やライトハウスにてカンポンさんと時空間を共にされた比丘であり善友であられる、プラユキ・ナラテボーさんとスティサート師も伝えて下っています。



そして、「法を伝える道具」になるには、比丘に、僧侶にならなければならない」という事はなく、在家者であっても修行を続ける事でなる事が出来る、という事も伝えて下さいます。

この事については、「いのちの最後の授業」にて、196頁から仏陀の時代にまでさかのぼり、具体的な話と共にパイサーン師が伝えて下さっています。



私は以前、「修行は仏門に入って、お寺にこもってするものである」と思うておった時期がありました。

しかし、今は仏道を歩むこと、瞑想や坐禅、お念仏は、歩歩是道場、その場その時、一挙手一投足が修行なり、と教わり実践しようとするようになり、「お寺の中だけの話」ではないのであるなあ、と、考えが変わっていっております。

そして、生涯を通して、僧侶ではない在家者であろうが、「法を伝える道具」として仏法を伝える事が出来ると言うことを体現されたのが、カンポン・トーンブンヌムさんなのだなあ、と、思うところに御座います。

「法を伝える道具」として生きる人、活動される人からきちんと受け取る「法を受け取る器」となる

私は、「法を伝える道具」の話を聞いた時、同時に「法を受け取る道具」という事も思い至りました。

「法を受け取る器」と言い換えてもよいでしょう。



と、いいますのも。



カンポン・トーンブンヌムさんは、ご自身を「法を伝える道具」と仰っていました。

この在り方は、ご自身もこの在り方を体現されたカムキエン師から教わり学び、生涯を通して実践されていると、私は考えております。

この事から、カムキエン師から伝えられている仏法を、カンポンさんは確かに受け取る器と成られている、いわば「法を受け取る器」でもあられたのではなかろうか、という考えに至りまして。



「法を伝える方」から、自身という器で法を受け取り、味わい実践し、そうして自らも「法を伝える道具」と為す。



ここに、プラユキ・ナラテボーさんが瞑想会で伝えて下さる「良き縁にふれ、良き縁となし、良き縁となる」に通じるものを観じます。

そうして、カンポン・トーンブンヌムさんが伝えて下さる方が、浦崎雅代さんによって私まで届いて下さり、届けられた方を、私という「法を受け取る道具・器」が受け止め、味わい実践する。



こう考えていくと、私という存在そうですし、一人一人が「法を受け止める道具」であるのかなあ、と、思うところに御座います。

「生老病死は自然なもの」を、悟った気になっていないか:浦崎雅代さんの後書きに学ぶ

今回、御縁あって読ませて頂いた、「いのちの最後の授業」。

この中で、最も印象に残った部分を、どうしても一つだけに絞って挙げてみせよ、と言われたら、私はどこをお伝えするのか。



それは、実は浦崎雅代さんが綴られた「あとがき」です。

その中でも、239頁にある部分です。



私は、このページのある箇所を読んで、突き刺さりました。

そして、改めて己の欺瞞や慢の煩悩、私は「智者の振る舞い・智者仕草」をしておるのではないか、と、自身を観る事と相成りました。

この箇所、是非ともご自身の肉体で、きちんと読んで頂きたいと思う箇所です。


生老病死は自然なもの、と悟ったように言う人は多いものですが、(後略)

※「いのちの最後の授業」あとがき239頁より引用



この部分を読んだ時、私は「まさに私も、ようやってしもうておることであるなあ。」と、突き刺さりました。

特に私の場合、勤行にて、その事を思う事が毎日あるがゆえに、陥ってることではなかろうかと、改めて自身を観たものです。



「白骨の御文章」や「黒谷和讃」を毎日音読しているけれども・・・

以前も申し上げました通り、私は毎日、「今生の別れ」や「愛別離苦」を教わる事になる、御文章と呼ばれる手紙や、和讃を読み上げております。

口に出して、声に出して。



また、ロードワーク中でも、ふと「もし、今ここで車が突っ込んできたら、私は浄土往生する」と、沸いてくることもあります。

そのような事を考えている時点で、全然ロードワークに集中できておらんなあ、と気づいて、また着実に走るわけですがね。

歩いているにも、ふと「自身の突然の最期」を、連想することも、仏教と再会して、特に「白骨の御文章」と「黒谷和讃」を読むようになってから、ふと出てくる事があります。



しかし、しかしですね。



では、私は「生老病死」を、最期を理解しているかというと、怪しいものです。

したり顔で、「この世は諸行無常、人は必ず亡くなる。死因は生まれたことである」というても、果たして、真に理解しているでしょうか。

そして、いざ自身が往生する時、また、親しい人が往生する時、「愛別離苦は常である」と、冷静でいられるか。



このような事を改めて考えた時、浦崎雅代さんが仰る「生老病死は自然なものと、悟ったように言う人」とは、まさに私の事であり、「生老病死を、法を悟った人仕草」や、私は「悟った風に見せかけている、ええ格好しい」になっていないか、と、改めて己を問うたものです。



特に私の場合、「生老病死を人様よりよく知っている」と、思い上がりやすい、と、ふと思い至りまして。

なぜならば、「白骨の御文章」と「黒谷和讃」を、毎日読んでいるから、皮肉にもそれが「自身は生老病死を悟っている者」と、思い至りやすい事にもなるのではないか、と思うたのです。

ここから、「私は死や往生について書かれている和讃を、御文章を読んでいる、だから生老病死を語る資格があるんだ、わかっているのだ」と、思うていないか、と、己を問うに至りました。

カンポンさんとカムキエン師に観る「自然なるままに力み無く引き受ける」智慧

私は、「生老病死は自然なるもの、無常なる人という存在にとって当然のこと」と、言語としても概念としても、確かに理解はしておるでしょう。

しかし、果たして真に「生老病死は自然なるもの」と、自然なるままに、力み無く受け止めているか、と問われると、断言出来かねます。

自然なるものを不自然に力んで声高らかに言うておるだけ、という、そのような姿を、己に見出す次第です。



カンポン・トーンブンヌムさんは、パイサーン師によると、「心に苦しみを抱えず、ありのままを受け入れて穏やかに逝かれた」とあります。

恐らく、無理に抗う事なく、まさに自然(じねん)なるまま、力み無い在り方であったのではなかろうか、と、私は想像致します。



また、カンポンさんに「苦しみを観る人」という在り方を示し伝えられたカムキエン師も、まるでいつものように眠るが如く、穏やかに力み無く逝かれたと、別冊サンガジャパンvol.4の浦崎雅代さんの記事に御座います。(別冊サンガジャパンvol.4、276頁下段参照)



「人には生老病死があるんだ、だからいつか他界するのは当然だ」と、どこか力んで悟った風な事を思う事が常なる私。

カンポン・トーンブンヌムさんの、そして師であられるカムキエン師の力み無く生老病死を体現された在り方は、己の力みによる「何々しているのだから生老病死を知っている」と力んでいる私を、問いただす御縁でもあるなあ、と、頂く事に御座います。



ただ、だからといって、「だから私は駄目なんだ」と絶望しきったり、そこから卑下慢に陥るのではなく。



確かに、今は不自然に、力んで生老病死や仏法を理解した気になっている私ではありましょう。

ただ、以前、浄土宗のお寺さんで「引き受ける」という事を、体感覚として開けた事がありました。

「引き受ける」という事を、力み無く頂けた事があったのも、事実。

そこから、カンポンさんやカムキエン師のように、「自然なるままに、力み無く引き受ける」という在り方に至る道もありましょう。



仏法を学び実践し、手動瞑想などの瞑想を今後もずっと続けて、気づきを保つように行じていけば、私という凡夫も、いつかは力み無く自然なるままになるのであろうか、そのような事も、ふと思うた事に御座います。



法を受け取り味わう器として:良き縁

今回は、「いのちの最期の授業」を読み終え、私にとって耳の痛いと言いますか、突き刺さる事柄であったり、そこから学び取ったこと等をお伝え致しました。



私は、まだまだ気づきが間に合わぬ事が多々御座いまして、学び実践して体感として理解した次の瞬間には慢の煩悩燃えさかる、という繰り返しです。

ただ、「あ、煩悩が炎上しとる」と、気づく事もあるようになってきた事も御座います。



その因の一つは、こうして、浦崎雅代さんが翻訳して伝えて下さる、カンポン・トーンブンヌムさんの智慧や仏法、教えに触れていることもありましょう。

カンポンさんと浦崎さんの善友であられる、プラユキ・ナラテボーさんから直接教わっている事も、因の一つでありましょう。



直接、また本を通して、私にとって善知識に触れる事ができる、有り難き御縁。

これはまさに、プラユキ・ナラテボーさんが伝えて下さる、「良き縁に触れる」という事と言えましょう。



良き縁に触れて、触れた方をきちんと受け取り味わうことが出来る器、道具である私。

そこから、「良き縁となす」という事を、「法を伝える道具」となるべくなしてなしていく。

そうして、私自身が「法を伝える道具」の一人となる、すなわち「良き縁となる」に繋がる。



プラユキさんが教えて下さる「良き縁に触れ、良き縁となし、良き縁となる」に、繋がっているなあ、と、ここまで書いて、改めて思うところに御座います。



合掌、礼拝

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