仏法を人を叩く棍棒や怠ける口実、あるいは約束反故の言い訳に使わないように|私が陥り痛感している

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



私は、有り難い事に御縁あって、プラユキ・ナラテボーさんから直接御法話を頂いたり、Twitter経由で説法を頂いております。

プラユキさんが教えて下さる事柄の中には、私にとっては耳の痛い話と言いますか、「ああ、まさに私が陥っている」と、痛感することも御座りまして。

最近も、Twitter説法の内容で、「私の事だ。」や「私が以前に勘違いしていたり、やってしまっていた事であるなあ。」と、痛感した話があったものです。

現在進行形でやっていることもあれば、気づいて次の一歩を踏み出せたこともあり。



例えば、以前に話しました「お念仏で人を叩いてしまう」というのも、その一つであります。

最近は、別時念仏会でも、そのような愚者が知者の振る舞いをする、愚者の智者仕草に気づけるようにはなってきている実感は御座いますが、まだまだ、と痛感することもしばしば。



今回は、プラユキ・ナラテボーさんのTwitterの話から、私も陥っている事柄でもあり、仏教を学び始めて間もない人も陥る可能性を見据えて、お伝え致します。



「修羅観音だって人のこと言えないじゃん、偉そうなことを」と、思われるでしょうし、実際、その通りであり耳が痛う御座います。

が、自身への改めての戒めという意味も込めて、話を進めてみることと致します。

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仏法を自分都合に武器に買えて振り回すという行為

今回の話をするきっかけとなりました、プラユキ・ナラテボーさんのTwitter辻説法、辻ッターを、まずは読んで頂くと致しましょう。





はい、お帰りなさいまし。



この文を読んだ時、「まさに私が陥っている事で、私が過去にもろに陥っていた事柄でもある。」と、直観したものです。

「戒律」と「禅定」の話は、未だに陥る事がありますし、「無常」も自分都合の言い訳に使いそうになる事があります。

特に、仏教と再会して暫くしてからは、「仏教を学び実践している自分は偉いんだ-」と慢の煩悩がものごっつ燃えさかっておった頃は、恐らく酷かった事でありましょう。

実際、後で詳しくお伝え致しますが、「無常」を自身の慢を増長させる言い訳の道具にさえしておった時期がありましたし。



これらの事柄について、一つ一つ、私の体験も使いながら話を進めて参りましょう。

「戒律」を武器にして人を裁く:人を卑下して自身を持ち上げる慢の道具として使ってしもうた

最初は、「戒律」についてから。

丁度、この話を書く前日に、近場のお寺さんで初期仏教の話や、戒と律について学んできたところであり、私にとってはなんというタイミングか、と、御縁を観じたものであります。



「戒」と「律」について、ここで詳しく話し始めると、それだけで終わってしまいますから、割愛致します。
(「戒」と「律」だけで、仏教講座でも3回かかりましたし、それでもまだほんの一部しか学んでいないという。)



仏教をある程度かじった人なら、「戒」には罰則がなくて、「律」には罰則がある、という話を聞いたことはあるかと存じます。

「戒」とは、「己を律する規範」など、そのような解説が一般的に話されております。

私なりに言語化すると、「克己的道標」と言ったところでありましょうか。



「戒」の有名どころは、「不殺生戒」や「不飲酒戒」等が含まれる「五戒」があります。

で、ですね、この「戒」についてですが。



「戒」を自身に課して、厳しく守っていたり、意識して守って生きていると、時折、こういう事が生じてきます。

「なんだあいつ、俺様はこんなに戒をきちんと守っているのに、あいつは守っていない。許すまじ!」と。



あるいは、私もこう思うた事があるのですが、「戒を守る私は偉い善人、守っていない人は愚かな悪人」とか。

まさに、プラユキ・ナラテボーさんが仰る「「戒律」を盾に人を頭ごなしに裁く行為」と観たり。



私の場合、表だって頭ごなしに人を裁いたりはしませんでしたが、心中では戒を持ってして人を勝手に裁いた事もよくありました。

そして、今もやってしまっていることに、この文章を書いていて、はたと気づく始末です。

「人様の苦しみを金儲けのためにトレンドブログでごちゃごちゃやっている奴は我利我利亡者である」とか、ね。

いや、本当にそう思うてはおりますが、今思えば、それは私がそういう行為をしないように「戒」として定めているけれども、人に強制する事ではないのかもなあ、と、己を省みた事に御座ります。



私の実感としましても「戒律」には、守ることで自由(自らに由る)になったり、苦から離れる方向があります。

この辺りの「戒によって守られる」という話は、プラユキさんの著書「自由に生きる」の第5章に記されていますから、目を通されると宜しいかと思います。





この事について、私の実体験をもうしますと。



私は正月でも一切飲酒せんようになりましたが、そのおかげさんで、アルコール飲料にかける分の金銭は別の事に使えますし、そもそもとして、「酒の失敗」をする可能性を極端に低く出来ています。

(誤解無きよう申し上げますが、飲酒を絶対悪とは申しておりません、あくまで、私が不飲酒戒を自身に課して実践しているだけです。)

「可能性を極端に低く」としか言えないのは、縁があれば口の中にアルコールが入る可能性がゼロではありませんからね。

例えば、誰かが躓いて手に持っているアルコール飲料を放り投げてしまった先に、偶然、私の口がそこにあれば、すっぽり入ってしまう可能性も否定出来ませんし。



もしも、この「不飲酒戒」を盾にして人を裁くとしたら、このような事になりましょう。

「私はアルコール飲料を一切飲まずにいて偉い、飲む人は悪だ」と言って、人様を裁き自分が優秀であり他は劣っていると優劣をつける。

そりゃあね、飲み過ぎはやめておいた方が良いでしょうし、酒のトラブルは厄介でしょうが、かといって、飲酒をしない戒を守っているからといって善人ぶって、人様を手前勝手に裁く行為はどうなのか、考えさせられます。



とにもかくにも。



プラユキ・ナラテボーさんは、「戒律」を誤解した行為について、「盾にして人を裁く」と表現されています。

私は更にそこに、己の克己の方向としてある「戒」を、棍棒にして人を叩くという事をしていないか、という事を、戒めとして付け加えたいと思います。

自戒を込めて。

「禅定」を怠ける言い訳に使う

二つ目は、「禅定」について。



「禅定」と言うと、仏教をある程度学び実践している人、瞑想をしている人ならば、聞いたことがあるかもしれません。

仏教の教科書的な本などにも書いてある事が多いかと存じます。



参照記事:「戒・定・慧の三学について更にツイキャスで学んだ事の備忘録|パユットー師の仏法」



この禅定について、誤解しないように導いて下さる話を、プラユキ・ナラテボーさんが「悟らなくたって、いいじゃないか」という本で紹介して下さっています。





この本の47頁に、タイの高僧であられるアーチャン・チャー師の話が紹介されています。



かいつまんで紹介しますと。



アーチャン・チャー師の弟子が、雨漏りしている粗末な小屋で瞑想していて、チャー師がそこに通りかかります。

そして、弟子に問います。

「雨漏りしているのに、なぜそれを直さないのか?」

すると弟子は言います。

「僕はそんな事には囚われていないので。」

すると、チャー師はこう言います。

「それは牛のサマーディ(定・集中)だよ。」と。



これ、私は他人事では無く、自分事と思うたものです。

「俺は、囚われていないんだー」という、この文言。

これを言い訳に使ったという経験、あなたにはありませんかね、私にはようあります、本当に耳が痛い、と言いますか、文字情報ということで、目が痛い。



わかりやすい例を挙げますと。

部屋が、所謂「汚部屋」だけど、「俺は美醜に囚われないんだー。」といって、一切掃除をしない、とか。

「俺は分別をしない、分別に囚われていないんだー。」といって、ごみの分別をしない、等々。



プラユキ・ナラテボーさんは、「行学二道」を大切にされていますし、「タム・チット(心的実践)」「タム・キット(作業的実践)」についても、説いて下さっています。

瞑想をして、心理的には確かに禅定に至り、囚われない、動じないようになったかもしれません。

だからといって、やるべき事、「自身の任務」であったり、為すべき営みを放棄したり無視するのは、果たしてどうなのか。

心ばかり調ようとして、作業的実践は全く手つかず、という状態。



私は、物事をきちんと知った上で囚われない事と、最初から無視して観なかった事にしたり目を背ける事は、違うような気が致しますが、如何なもんで御座いましょう。



「瞑想して、物事に囚われなくなった」といって、身の回りがえげつない事になっているのは、人が瞑想中ではなく、牛さんが迷走中、という事になりかねないと思うのです。



そのような事として、プラユキ・ナラテボーさんが紹介して下すったアーチャン・チャー師のこの話を読み、戒めとして頂く事に御座ります。

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「無常」を約束した事を反故にする言い訳に使っていないか

三つ目は、「無常」について。



この「無常」も、仏教の有名な言葉であり、中学時代に平家物語で「諸行無常の響きあり」という言葉で知ったという人も、多いかと存じます。

私は、平家物語を習った時、この「諸行無常」に、何かこう、感じるものがあり、仏教と関わって生きる素地があったのかなあ、と、今でも思い出す事があります。



この「無常」も、よく誤解されると言いますね。

よくあるのが、「むじょう」が「無情」と同じ音から、悲しくマイナスイメージで連想する、という事では無かろうかと存じます。



そして、「無常」の誤解と言いますか、誤解した使い方というのが、プラユキ・ナラテボーさんが指摘されている「取り決めをに反故した際の言い訳」です。

別の言い方をすると、「朝令暮改の正当化」とでも言いましょうか。

要するに、「ころころと自身の意見を変える際の言い訳に使う」という使い方です。

詐欺師が開き直る際にも、使われることもあるのかなあ、と、思うたりするのですがね。



確かに、現世は「無常」であり、「心変わり」が秒単位で行われたりする事もありましょう。

また、形ある物はいつか朽ちるというのも、ありましょう。



しかし、それは自身が「無常ゆえに、常なる事はない」と自身に戒めたり、諦める(明らかにする)方向で持つことであろうと、私は頂いております。

それを、「どうせ無常なんだから、何を言ったっていいんだ」と開き直って、自身が約束したことや発言したことを反故にする言い訳に「無常」を持ち出すのは、如何なものであろうか、と、私個人は思うのです。



どうでしょう、きちんと約束したことを、勝手に自分都合で「いや、あの約束は無し、ほら、だってこの世は無常じゃん」と言われたら。

あまつさえ、それを指摘したら「なんだよ仏道修行してるくせに怒るのか、無我に達していない未熟な自我だらけな奴め」と、逆ギレされたら。



これは、私も縁が調えばやってしまいかねないことゆえに、これも、自戒なり、自戒なり。

仏法を自分都合の良いわけの盾にしたり、仏法を棍棒にして叩いたりしない

今回は、プラユキ・ナラテボーさんがTwitterで仰った事柄を、自身の戒めなる話という意図も含めて、お伝え致しました。



プラユキ・ナラテボーさんがTwitterでお話し下すった事は、私も陥った事があります。

「無常」を使って自己正当化、心変わりを正当化しようとしたこともありますし、怠ける言い訳に使った事もあります。

また、仏法で人を叩く、という事については、「お念仏で人を叩く」という事をやらかした事もあったものです。



参照記事:「慢心・慢の煩悩燃えさかる私|プラユキ・ナラテボーさんとだいやめさんに学ぶ仏教の智慧」

参照記事2:「プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会・新春の瞑想と対話の会@京都|参加体験談」



私は、毎日、手動瞑想と坐禅を組み、瞑想の効果なのか、ちょくちょくと「気づく」という事が増えてきた実感が御座います。

ただ、「あ、今気づいた。そして気づいた自分は偉い、気づいていない人より進んでいる」という、慢の煩悩が燃えさかる事も、まだまだ御座ります。

そして、「あ、また慢の煩悩が、でも、慢の煩悩に気づいた自分はやはり偉い」と、この繰り返し。



こうして、またしても、「無常」や「戒律」で人を叩いたり、自己正当化する言い訳に使って人を傷つける事があるのではないか、と、改め猛省する日々。

だからこそ、きちんと戒を頂き実践し、瞑想も学を学ぶことも継続し、また瞑想会にて地図の確認をする事を続けようと、改めて戒める事に御座ります。



合掌、礼拝

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