身体を仏法を伝える道具とする事と苦しみを観る人の話|浦崎雅代さんの記事(別冊サンガジャパンvol4)に学ぶ

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日、Twitter経由にて、浦崎雅代さんの記事が掲載されている「別冊サンガジャパンvol4」の情報を頂きまして。


私は、浦崎雅代さんのブログやオンライン媒体のマガジンの記事を読ませて頂く事がありまして、別冊サンガジャパンの記事も読みたいと思いましてね。

本屋に並んだ日に購入して、早速読み終えまして、今回はその話に御座ります。



以前から、浦崎雅代さんの記事や、浦崎さんとプラユキ・ナラテボーさんが訳して下さったカンポン・トーンブンヌムさんの本から、多々学ばせて頂いておりまして。

今回の記事も、ページ数にして40頁弱の分量ではありますが、改めて自身の身に置いて気づきや学びを頂いた事に御座ります。



尚、最初の内に注意事項をば。



今回の話は、「別冊サンガジャパンvol4」に掲載されております、浦崎雅代さんの記事を読んで、私が出逢うた教えであったり、そこから私がどのように頂き生きる道に生かそうか、という話であります。

そこで、記事の内容にはふれは致しますが、知的財産権・著作権の課題もありまして、話す事ができぬ事もあります。

全文掲載なんてもっての他ですし、その辺りは、ね。



実際にご自身で読まれることが、一番宜しいかと存じます。(後半に、本の情報を掲載しておきます。)

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浦崎雅代さんのサンガジャパンの記事に学ぶ:身体を仏法を伝える道具とする

今回の、「別冊サンガジャパンvol4」に掲載されております、浦崎雅代さんの記事について。

内容は、実物を読んで頂ければ良いのですが、ここでは予習的に、私が特に学びを頂いた話を、かいつまんでお伝え致します。



今回の記事には、上述したカンポン・トーンブンヌムさんという方に、仏法や瞑想の方法を伝えられた比丘(僧侶の事)が書かれています。

その方は、ルアンポー・カムキエン師という比丘で、スカトー寺の住職をされていたタイのお坊さんです。



現在のスカトー寺住職であられる、パイサーン師の師でもあり、プラユキ・ナラテボーさんはこのルアンポー・カムキエン師のもとで出家されました。

プラユキさんとカムキエン師の出会いについては、プラユキさんの著書「自由に生きる」14頁に掲載されています。





浦崎雅代さんの記事には、このカムキエン師と、カムキエン師から仏法と瞑想を伝えられたカンポン・トーンブンヌムさんの話が掲載されており、お二方は次の事を実践されました。



「身体を、法を伝える道具とする」



一体どういうことかというと、これはもう、浦崎雅代さんの記事を読んで頂き、カンポン・トーンブンヌムさんの著書と動画を見て頂く方が宜しいかと存じます。



カムキエン師は、このように仰っていたそうです。

その部分だけ引用致します、その前後の文章も気になる人は、別冊サンガジャパンvol4にてご確認下さればと思います。


たとえ苦しみが起こっても、それにはまらず、観る人となる

※別冊サンガジャパンvl4、276頁、浦崎雅代さんの記事より引用



この言葉を、カムキエン師は病をお持ちになってからも実践され、カンポン・トーンブンヌムさんも、その著書にて「苦しむ人から苦しみを観る人へ」と、私達にメッセージを残して下さっています。



カムキエン師もカンポンさんも、病や障害と共に在る姿も、そして最期の時も人々と共に過ごされたそうです。

その最期の過程まで、ご自身の身体を持ってして伝えられたお姿は、まさに「法を、仏法を伝える道具」とされたお姿であるのだろう、と、思うところに御座ります。

私がここから学び感じた事:仏法を伝える道具であり、また、仏法を学び味わい実践する道具でもある

私は、浦崎雅代さんの記事を読ませて頂いて、改めて「仏法を伝える道具」としての身体、この身について、考えたものであります。

そして同時に、この身体は、仏法を伝える道具として生きる事も出来ましょうし、また、このようにもなるであろうと、考えが至りました。



「身体は、仏法を頂き、味わい、学び実践する道具でもある」



この事は、先日のお寺での坐禅で「そうか!」と繋がった話と、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会にて気づいた事とも関連致します。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんの春の関西瞑想会in京都2018に参加して体験談|午前中の仏教講座と繋がった話」



どういうことかと申しますと。



私は先日、上述した参照記事にも書きました通り、坐禅をしている時に、外の音声や足のしびれを頂いておりました。

その時、肉体感覚感性のレベルにて、「ああ、この身において引き受けていくのであるなあ。」と、すーっと腑に落ちた瞬間が御座いまして。

この時の音声や足のしびれは、私にとっての善知識的な事柄とも言えましょう。



その善知識的な事柄を、この身で引き受けたことによって、はじめて私は法を頂けたと言いますか、気づかせて頂いたという構造も観えます。

また、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会では、手動瞑想を直接習いましたが、この手を動かすからこそ、手動瞑想を実践できるのであり、そのことによって気づきの智慧も頂く事が出来ますし、味わえます。

この事に至ってから、浦崎雅代さんの記事と出会わせて頂いた時、このように思うたのです。



「身体は、仏法を伝える道具でもあり、仏法を頂ける道具・器でもあるのだなあ。」



仏法を、この身体を器として頂き、実践して磨き、そうして仏法を伝える道具とする。



私では、仏法を伝えることはとてもとても・・・と思うばかりではありますが、仏法を頂き味わい、その姿をお見せすることは出来るのでは無かろうか。

このような希望も、少しみえたような気が致します。

最も、私はまだまだ煩悩が燃えさかる凡夫であり、苦しみを観る人に全くもってなりきれておらず、修練する日々ではありますが。

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最期の時、愛別離苦を頭でしか理解できていなかったことに改めて気づく

別冊サンガジャパンvol4の、浦崎雅代さんの記事を読ませて頂き、改めて考えた事の別の話としまして。



記事では、ルアンポー・カムキエン師とカンポン・トーンブンヌムさんの、最後の瞬間までの話が綴れております。

そこでは、日本ではなかなか観られなくなったであろう風土や文化、社会の事にも関連した話がありまして。



引用乱発は控えたいから詳しい内容はここでは掲載しませんが、改めて自身の身を考えてみたのですがね。



私には、実は物凄く思い上がっておったことが御座いまして。



私は勤行にて、「黒谷和讃」という和讃と、浄土宗の勤行では読まないのですが、真宗の「白骨の御文章」という、蓮如上人のお手紙を読ませて頂いております。

黒谷和讃も白骨の御文章も、内容は「人はいつ最期の時を迎えるかわからない」という話が書かれております。

また、看取りの時、臨終の際に読まれる「発願文(ほつがんもん)」も、読ませて頂いております。

これらの文言を毎日読ませて頂いておるのですが、いつ頃からか、このような慢心があったことを、思い知ったものであります。



「黒谷和讃や白骨の御文章を毎日読んでいる私は、臨終・最期の覚悟が出来ているはずだ」

「毎日読む自分は偉い」



私は読んでいるだけであり、偉くはありません。

そして、ただ読んでいるだけで、腑に落ちてきちんと力み無く覚悟が定まっておるかというと、そんな事は御座いません。

はっきり言って「読んでいるだけ」で、暗記するまでに読み続けただけであって、自身の最期も愛別離苦も、迎える準備は全く出来ておらんのです。



にも関わらず、「憶えるほど読み続けている自分は、よくわかっている」と、慢の煩悩に囚われておったことに、カムキエン師とカンポンさんの話からこの身を照らされ、己の慢を思い知った事に御座ります。

なんとも、慢の煩悩燃えさかるこの身なり、いかがせん、いかがせん。



ただ、次のようにも思い至りました。



だからこそ、毎日の勤行を機縁として、向き合う事が肝要ではなかろうか。



そのようなことを思うに至るところまで、浦崎雅代さんの記事に、導いて頂いた、そのように思うところで御座ります。



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自身を仏法を頂きながら学び実践する器・道具とし、仏法を伝える道具にも出来ればと思います

今回は、別冊サンガジャパンvol4の、浦崎雅代さんの記事を読んで、私が学ばせて頂いた事、猛省せんといかんこと等を、お伝え致しました。



カムキエン師もカンポンさんも、ご自身を「仏法を伝える道具」として、その生涯を全うされた、と、浦崎雅代さんの記事から頂く事ができました。



私は、とてもじゃないけれども、仏法を伝えるどころか、実践もままなっておらんなあ、と、思うばかりであります。

歩行瞑想や手動瞑想をしてはおりますが、歩行瞑想中にもすぐに意識があっちこっちと飛びまくりますし。

「あ、そうか!」と、突然繋がる経験もあるにはありますし、そのことも何度かお伝えしておりますが、なかなか瞑想的な生活、生き方とはほど遠い凡夫である事であります。



ただ、それでも、善友・善知識なる方々のお支えによってお育て頂いておりますこの身。

至らぬ私であっても、仏法を頂き、味わい、学び実践する事が出来る仏縁を頂いているのも、またこの身であります。

そうである以上、まだ希望を捨てるには早すぎるだろうと、勝手に思うております。



こんな凡夫なる身であっても、仏法を頂ける御縁を頂いた以上、この身を仏法を頂き、味わい、学び実践する器とし、精進していく次第で御座います。



尚、浦崎雅代さんの記事や翻訳された本は、以前の記事から辿ることが出来ます。



参照記事:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」

参照記事2:「浦崎雅代さんのnoteに学ぶカムキエン師の教え|「苦しむ人」から「苦しみを観る人」になり「苦しみを知る人」へ」

参照記事3:「精一杯やるが深刻(シリアス)にはならない|浦崎雅代さんの連載記事に学ぶ仏教の教え」

参照記事4:「「いただきます」を味わう|食に関わる者の姿勢を浦崎雅代さんの記事に学ぶ」

参照記事5:「「気づきを楽しむ」浦崎雅代さんの連載を読んだ感想文|現代社会に活きる智慧を学ぶ」



この御縁によりて、苦に飲み込まれていた状態から、苦を観る人となり、苦から解放される方が一人でも増えれば、嬉しゅう御座ります。



合掌、礼拝

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