「思考停止するな」「自分の頭で考える事は大切」はわかるけど|安易な言い訳に使っていないかを問う

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



あなたは、人から「思考停止するな」「自分の頭で考えなさい」等、こういった類いのお説教を受けた事はあるでしょうか。

私は何度か御座います。

私の場合、無い知恵絞ってあれこれ考えて実践し、失敗しまくってまた考えて、と、七転八倒が続くのですがね。

そうかと思えば、現在は思考を一旦止めてみたり、観察するべく瞑想や坐禅の行に励んだりしておりまして、なんとも試行錯誤と思考停止を行ったり来たりする毎日に御座ります。



巷では、よく「思考停止するな」「自分の頭で考える事が大切である」「人に聞く前に、まず自分で試行錯誤してから」と、言われているような気が致します。

もちろん、私もそれは大切な事であるとは念うところでは御座います。



ただ、この「思考停止するべからず」という言葉や概念を、自分都合の良いわけに使われていたり、格好付けて言うているケースも、多々あるのではないか、と思い始めまして。

「思考停止させず自分の頭で考えさせるために、あえて答えを教えないんだ」という言い方に、違和感を覚えている事にも共通している感覚でありましてね。



確かに、考える力を養い、思考停止せずに自覚的に物事を考えたり捉えたりして、試行錯誤することは大切です。

しかし、人様に「思考停止するな」「自分の頭で考えなさい」と言う側に立った時、自己の有り様は如何様か、という事を、考えるに至りました。



今回は、「思考停止するな」「自分の頭で考える事が肝要である」という事を、人に発する際の自身を見つめ直す機会と致します。

スポンサーリンク

思考停止せず自覚的に自分の頭で考える事は、確かに大切・肝要である

思考停止せずに、自覚的に自身の脳細胞をぶん回して、きちんと考えるという事。

これについては、私も肝要な事であり、否定は致しません。



現代社会におきましては、色々な事柄が全自動、あるいは半自動的に処理される事柄が御座います。

毎日行う動作、エトス(行為様式)、例えば、朝起きたら歯を磨くという動作など、意識せずとも出来るレベルの事も御座いましょう。

その場合、ぼーっと歯を磨いているか、「朝飯のパンに塗るやつは、何にするかなあ。」と、別のことを考えている事も御座いましょう。

こういう場面こそ、「歯を磨く際には歯を磨く事になりきる」という、瞑想修行の場となるのですがね。

まさに、歩歩是道場。



また、仕事や技術的な事柄においても、思考せずとも勝手にやってくれるという事柄が、多々御座います。



私の場合でしたら、現在、RubyやRuby on Railsを学び実践しておりますが、Railsに至っては、gem installだとかrails new 何何とコマンドを入力してエンターキーを押せば、自動的に色々とこしらえてくれます。

ここに、思考せずとも物事を処理してくれる技術の有り難さを感じるところで御座います。



ただ、だからこそ、「自覚的思考」とは離れて、流されるまま、考える事なく物事が進むという自体もあり、それによる不具合を経験する事も御座いましょう。

それゆえに、無意識の中でトラブルが発生した場合、「あれ、これはどこがやばかったんだ?」と、無自覚・無意識故に、不味いところに気づきにくい、という事態にも見舞われるわけです。

実際、こういう体験をした人も、多いのではありませんかな。



卑近な例で言うと、ぼーっとして、全く自覚無く思考停止した状態で、手に持っている物を「ちょい置き」して、次の瞬間、「あれ、手に持っていた物、どこへやったっけ?」となる、とか。

また、思考停止状態で物事を進めたり、溢れる情報を思考停止状態で無自覚・無批判に取り入れすぎると、物事の善し悪し・善悪の区別無く、事を進めて、事をし損じるという事も御座いましょう。



こういった事によって、現代的な悪を為してしまった、という事例は、カルト宗教の事例や、歴史を紐解いていけば、見えてきます。

長い歴史の中で体系立てられて鍛えられてきた宗教は、要所要所にリミッターを置き、そのリミッターによって思考停止状態を防ぐ機能が御座います。

しかし、そのようなリミッターが無い場合、人の力では制御出来ない程の暴走をしてしまう事も御座います。



そういう事例を、歴史を学んで知った事もあり、私は「思考停止するな」「自分の頭で自覚的に考える事が大切です」という言説は、無下に否定しませんし、確かになあ、と思う立ち位置におります。

「思考停止するな」「自分の頭で考えろ」は、大切ではあるけれども・・・

上述している通り、私は「思考停止するな」「自分の頭で考えることが大切ですよ」と言われると、なる程確かに、と、言われる度に己を戒めております。



私は意地っ張りな性格もあって、答えを観る前に自分の頭で試行錯誤して、問題をときたがる性質が御座いまして、答えを教えて貰う事に、何らかの躊躇と言いますか、そういう感じがありましてね。

少年時代から、問題を解いている際に、横からネタバレ宜しく、親切心で答えを教えてくれる友人の諸行に、内心「余計な事をせんでくれ」と、思うた程です。

また、大学の恩師達からも、思考停止せずに自分で考えることの大切さを、色々な講義で教わってきました。



そういった経験から、「思考停止せず、自覚的に考える事」それ自体は否定しておりません。



ただ、ドヤ顔で「思考停止するな」とか「自分の頭で考えなさい」と、言う場面と出くわす事も多々御座いまして。



Twitter等のSNSでも、「思考停止するな」「自分の頭でちゃんと考える事が大切」と、説教がましく宣っている人って、見つかりませんかな。

もちろん、それは大切な事ですし、否定するような事ではないのですが、どうも私は、その背景と言いますか、文脈に違和感を持つようになりましてね。



それで、この違和感は何ぞや、と、あれこれ考えて見たところ、もしかしたらこういう事かな、という「仮説」をたてるに至りました。

スポンサーリンク

「思考停止するな」「自分の頭で考える事が大切」と、自分から人に言う場合を考える

「思考停止するな」「自分の頭で考える事が大切」と、言われた場合、確かになあ、と、その時は素直に聞くものでありますが。



私自身、人に対して「思考停止するな」「自分の頭で考える事が大切ですよ」と、面と向かって「こうしなさいよ」とは、なかなか申し上げる事が出来ません。

と、言いますのも、自身が全然出来ていないし、そもそも、意図的に思考を止める行も実践しているからです。

思考も大切、しかし、思考を止めることも大切(仏教や瞑想においては「止観」といったりします)、「思考」という概念そのものを問い、良い塩梅の距離を行じておる、といったところでしょうか。



そういう立ち位置故に、人様に向かって偉そうに「思考停止するな」とは言えない私。

そして、その立ち位置から、「思考停止するな」「自分の頭で考える事が大切」と、人様に向かって言う場合の有り様や姿勢について、考える事に致しました。



更にそこから考えた、「思考停止するな、と人に言う人の中には、こういう有り様に陥っている人もいるのではないか。」という仮説を二つ、お伝え致します。

その1:「思考停止するな」を思考停止した状態で言っている・流行で言っている

「思考停止するな」「自分の頭で考える事が大切だ」と、人様に向かって言っている人の中に、こういう例もあるのではないか、という事柄の一つ目。



「流行で言っている、なんとなく言っている」



言うなれば、「思考停止するな」という事を、考えなしに、それこそ「思考停止状態」で発音しているだけ、という状態です。



これは、自己啓発系の本に感化された人や、宗教に超絶依存的な状態になったり、誰かを盲信してその人の言説を流布しているだけ、という状態と同じようなものです。

「なんか、思考停止するなって、そうだと思うし、格好良い感じがするし、俺も使おう。」とか、そんなノリで。



ありそうなのが、少し前からまた読まれてきているらしい、ハンナ・アーレントさんの本を少しかじったりして、その延長線であったり、ノリで言っているだけ、という事例でありましょうか。

「思考停止するな、アイヒマンみたいになっちゃんぞ!」と、言いたかったから決め台詞的に言ってみた、という感じです。

映画「ハンナ・アーレント」も放映されましたし、先日も本屋に行くと、「イェルサレムのアイヒマン」等、棚で紹介されていましたから、ある程度知られてきているだろうと観ております。


また、100分de名著でも、ハンナ・アーレントさんが伝えられた全体主義や「悪の凡庸さ」について取り上げられていましたから、ご存じの人もいらっしゃいましょう。




ちなみに、私はタイミングが合いまして、映画「ハンナ・アーレント」は、映画館で視聴致しました。

ついで、ではありませんが、同じ俳優と監督による「ローザ・ルクセンブルク」も、合わせて観ておかれると宜しいかと存じます。

映画「ハンナ・アーレント」の中でも、ローザ・ルクセンブルクという名前が出てくるシーンがありますから、その繋がりで。



どちらも地味な映画ではありますが、私好みでは御座いました。


話が逸れましたから、戻しまして。



こういった、まあ、流行と言って良いのかわかりかねますが、「誰かが思考停止するな、と言っていて、それがなんか良かったから」というノリで、ドヤ顔で「思考停止するな」と言っている人、いらっしゃいませんかね。

別にそれ自体が悪いわけではありませんが、ノリで言われても、何となく薄っぺらさを感じます。



いや、凡庸な悪に陥らないために、思考停止・思考不能状態にならぬように、自身の頭をフル活用する事は、肝要ですよ。

それ自体が悪ではなく、ただ、バケツリレーよろしく、右から左へ聞き流しているに過ぎない使い方をしていないか、という事です。



人様に向かって、「思考停止するな」と言うのであれば、まずは自身が、その事について、きちんと自覚的に思考しているか、と、問うて観る事が肝要ではなかろうかと存じます。

「思考停止するな」を、言い訳や誤魔化しで使っていないか?

もう一つ、「思考停止するな」「自分の頭で考えなさい」と、人様に発する時の在り方で、こういう事はなかろうか、という仮説。



「応える事・答える事から逃げるための言い訳・先手の質問封じに使っていないか」



これは、管見の範囲内においては「考える力を付けるために、あえて答えを教えないんだ」という言い訳がましい言説とセットで使われる傾向があるのではないか、と、感じているところに御座います。



大人が子供から鋭い質問をされて、逃げるときに、こういう逃げ方ってした事、御座いませんかな。

大人のプライドか、「わからん」とは言い難く、かといって、明確に応えられる力もなく。

苦肉の策が、「それは自分で考えろ」「何でもかんでも聞いてはいけない、思考停止しないために自分の頭で考える事が大切だから」とか。

私も、そうやってはぐらかされてきた事が御座います。



厄介なのが、これをどの場面でも用いるという愚行をやらかす者がいる事です。

「それはその場ではサクッと答えを手渡して、後で「どうしてこれが答えなのか、考えてみな」とした方が、目の前の問題を解決出来るし、後できちんと考えることで思考停止も防げるだろうに。」と、思う場面でも、やらかしてしまう輩。

後、「初歩的な質問でもなんでも聞いてね」と集客しておきながら、いざ金銭を払うと「思考停止するな、答えはあえて教えない(キリッ)」とかやってしまう我利我利亡者など、ね。



一見、確かに思考停止しないために、答えをサクサクと教えない、という教授スタイルは、わからんでもありません。

それこそ、禅問答・公案においては、答え無き答えを延々とやり取りしたりなど、在る話でしょうし。

仏教・仏法を学んでいると、答え無き問いを問い続けるという事があり、その苦しさから、サクッと答えを教えて欲しくなるときだって御座いますよ。

でも、それをされると、その「答え」に執着して思考停止しかねませんから、「考える力を養うために、思考停止させないために答えを教えない」という事の大切さは、肌感覚で存じております。



ただ、ただですね。



自身の中身が空っぽで、答えを知らないから、実力不足だから、という事を誤魔化すために、「思考停止するな、考えるために答えをあえて教えない」という言い訳をしていないか、と、問うところに御座います。



質問封じであったり、自身が掻くべき汗を掻くことを拒む言い訳に、「思考停止するな」という言説を自分都合で利用していないか。



人様に「思考停止するな」「考える力を養うため、俺はあえて答えを教えず考える事を施しているんだ」と発している人は、今一度、考えるべき事ではなかろうかと存じます。

人様に「思考停止するな」「自分の頭で考える事が大切」と偉そうに言う前に

「思考停止しないこと」「自分の頭で考える事が大切」という事は、確かにそうだと思いますし、否定する事ではありません。

自身の戒めとして持っておく事であり、また、あまりにも流されっぱなしの人や、全然考えていない、考えなしに色々と突っ走っている人に対するブレーキとなりましょう。



ただ、人様に対して「思考呈するな」という場合、自身はどうであろうか、という、「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」が抜け落ちているという事、結構あったりしませんかな。

まさに「おぬしが言うな」という事に陥っていないか、今一度、己を顧みる事も肝要では無かろうか、と存じます。



もっとも、こうして偉そうに抜かしている私自身もそうですし、「それこそ、自分都合で言っていないか」と、法然上人や親鸞聖人がささやきかけてこられるのですがね。





思考停止・思考不応状態になって、無自覚に生きる事を戒める教えとして、「思考停止するな」は、肝要です。

しかし、それを人様に伝えたり教える際、今一度、「それを伝えている自身はどうであろうか。」を、忘れぬようにしたいものであります。



合掌、礼拝

スポンサーリンク