「何々を知らないのは人生損している」「是をしないなんて馬鹿だ」を傲慢な言説と思い、私も陥っている話

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



娑婆世界を生きておりますと、好悪による偏りも出てくる事でありましょう。

禅の言葉に「悟れば好悪無し」とはあり、私も仏法を頂き実践している身、行学二道を継続している身ではあってもも、どうにもこうにも好悪つけてしまっております。

好悪をつけている事に気づき、そこに執着しない、という事を日々の手動瞑想なり坐禅なり、お念仏をしながら歩いたりと、色々やっておるのではあるのですがね。



そういう「好悪」についても関わる話で、時々、こういう言説に出会う事ってありませんかな。



「何々を知らないのは、人生損しているよ。」

「俺様がやっている是をしないなんて、君は馬鹿だなあ。」



私も何度か言われたことがありますし、私も冗談めかして抜かしてしもうた事も御座ります。

その事を思い出すと、「私はなんて傲慢で愚かなことをしてしもうたのであろうか。」と、反省するのでありますが。



いろいろなところで見聞きする、「何々を知らないのは人生損しているし馬鹿だ」という言説について、改めて考えてみることに致します。

自戒を込めて。

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「何々を知らないのは人生損している、何々をしないのは馬鹿だ」という言説について私の主観

私も言われたことが有り、私自身もやってしもうた「何々を知らないなんて、人生を損しているし、馬鹿だ」という言説。



Twitterやビジネス界隈(ビジネスというてよいのかどうかそもそも疑問ですが)では、仮想通貨やアフィリエイト、ブログ辺りになりましょうかね、その「何々」の対象は。

例えば、「今時仮想通貨をやっていないなんて、損をしているし馬鹿だ。」とか。

「え、ブログ書いてないの?人生損をしているよ。」だとか。

そして、大体が、いざ触れてみて損をしたり、自身には合わなくて時間を無駄にしたとしても、「いや、自己責任だから。」と、煽り発言した者の責任からは逃れようとする体たらく。



特に金銭が絡む場合、この言説の裏に見え隠れしているのは、大体が「俺様に金を出さない奴は価値ある物を理解できない愚か者だ」という傲慢な煩悩です。

燃えさかっておる煩悩に気づかぬとは、無明なり、無明なり。



他には、この言説を抜かす輩が贔屓にしている作品とか、その辺りでしょうか。

「何々という作品を知らないなんて、観ていないなんて、君は損をしているなあ。」とか、そんな感じです。

こういう言われ方をして、むきになってその作品に触れたとしても、批判的な見方や粗探しをするような作品のふれ方になりやすいと思うのは、私の邪見による邪推でしょうかね。



私はこの「何々を知らないのは損だ、やらないのは馬鹿だ」言説について、あくまで私の主観ですが、「無明なる凡夫の愚行」であると、現段階においては定めております。

もっと言えば、「何様だ。」という話です。



いや、まあ、私もやってしもうておりましたし、今でもやりそうになる愚人悪人な私ゆえに、偉そうな否定の仕方は出来ないのではありますがね。

その上で、自戒も込めて、この「何々を知らない事を損だと抜かしたり馬鹿だと抜かす口業」は無明な凡夫の愚行と、私は思うております。



ここで「無明」という事が肝要でありまして。

だって、「何々を知らない人と知っている人」で優劣を決めて、知っている自分は偉いという傲慢さが見えておらず、相手を蔑んでいると言うことに気づいておらんのですからね。

全くもって、自身の行為も内面も見えておらん事を露見しておるわけであり、見えていないという意味での愚かさ故の「無明」です。



まあ、以前の、いや、今も続く私の事でもありますが。

何々を知る知らないは、縁による故に、それを損だとか馬鹿だとか言われても・・・

「何々を知らないなんて、君は損をしているし馬鹿だなあ。」という言説。

私は、縁の思想を大切にしていることもあるがゆえに、この言説をぶつけることには、「傲慢なる愚行」と、源田無きにおいて思うようになっております。



と、言いますのも。



「物事を知る」というのは、いつ、どのようにその事柄を知るかと言うことについては、自身で全てコントロールできるわけでは御座いません。



もちろん、この事は、「知るか知らないかは縁が全てだから」と言うて、不勉強の言い訳にする事を推奨しているわけではありませんから、そこは注意申し上げておきます。



例えば、私は現在、RubyとRuby on Railsなどのプログラミング言語を学んでおりますし、仏教を学び実践しておりますが、それに関連する事柄を知らないというのは、私が不勉強で浅学ゆえに、であります。

知ろうとする事、習得しようとする事によって、知らない→知るという縁を結ぶ可能性も大きくなりましょう。

ただ、人に対して「これを知らないのは愚かだ」というのを、無自覚にぶつけると言うことについて、私は注意申し上げたいと思うのです。



また、「何々をしないのは愚かだ」という言説をぶつけることについても、これまた縁あるかどうかによりけりでありましょう。



例えば、あなたの友人が、大好きな物凄く美味なアルコール飲料があるといって、勧めてきたと致しましょう。

そしてそれを、「お勧めだから」と、知人からあなたに勧められた時、あなたは不飲酒戒(ふおんじゅかい)などの宗教的な理由であったり、体質的に絶対に飲んではいけないという事情があるとします。

ゆえに、「飲めない」と断ったとしましょう。



その時、「こんなに美味いもんを体験しないなんて、お前は人生損しているし実に馬鹿だなあ。」と言われたら、どう思われますかね。



私なら、「なんという傲慢で無明なる輩か」と、縁を薄めていくでしょうし、最終的に一切付き合わないと思います。(実際、似たようなことで縁無き者同士になった事もあります。)

そして逆に、自分側はこうしないように、と、反面教師として頂く事に御座ります。

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例を一つ:映画を例にしてみます

「何々をしていない者は馬鹿だし、何々を知らないなんて人生を損している」という言説を、いわゆる「ディって」おりますが、私も偉そうなことは言えません。

と、言いますのも、以前から申し上げてきているように、私もさんざんやらかしてきておりますからね。

本当に、情けないし、申し訳ない。



そして、私もそのような愚行をしてきているなあ、と、猛省する機会を頂けたのが、2018年の初っぱなに参加する御縁がありました、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会の懇親会です。



参照記事:「プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会・新春の瞑想と対話の会@京都|参加体験談」



また、日々頂いております御経さんであったり、仏教講座でお坊さんと話す中で、改めて身につまされる話を頂いてきた事から、今回、改めてこの話をする事になりまして。



そんな私の実体験を交えながら申し上げますと。



私は、今では「お念仏をすることが偉いという事ではないし、仏教を学んでいるからと言って偉くなっているわけではない。」と言う思想で生きるようになっております。

日々、念仏行脚や歩行瞑想、手動瞑想をしておりますが、これはあくまで自身に由りて「する」として勝手にやっているだけです。(仏教の「自由」は「自らに由る」という意味)



もちろん、それによる効能も、確かに頂いてはおるのですが。

しかしですね、この「効能を頂いている」という事、現代の言葉でわかりやすく言えば、「成功体験」や「神秘体験」と言った事柄を体験すると、今回の話に繋がる愚行をやらかすことにも繋がるのです。



どういうことかと申し上げますと。



例えば、あなたの友人知人が、「あの映画観に行ったけど、物凄く感動した、めちゃくちゃ良い映画だった。」と話してきたとします。

(ちなみに、映画の話をしたのは、この記事を書いている2日前に、「さよならの朝に約束の花をかざろう」を映画館で観てきまして、映画での例えをぱっと思いついたが故に。)

そしてその友人知人は「めっちゃ良い映画だったから、君も観た方が良いよ。」と言われたとします。



が、その映画は、あなた自身には趣味に合わない好みではないという事で、観に行かなかった映画です。

それを正直に話すと、友人がこう言ってきました。



「あの映画を観ないなんて、君は馬鹿だなあ。人生損しているよ。」



こう言われたあなたは、その時、どう思いますかね。



ちなみに、私はこれと同じようなことをされて、更に後日「ねえ、あの映画いつ観に行くの?」としつこくやられた事がありました。

流石にうんざりし出したその時の私は、ぴしゃりと「その映画を面白いと思うのは、あなたの主観でしょう」ときつい言い方で言い放ってしまい、その後は勧められなくなりましたが。

私も陥ってしまう事:「何々をしている自分は偉い→何々をしていない者は馬鹿だ」という思考と行動の流れ

例を挙げたところで、神秘体験や成功体験をしたが故に、「何々をしている自分は偉くて、何々をしていない者は馬鹿だ」という思考に陥る話に戻ります。



私は、ある時期からお寺に行って御法話を頂くという行為を重ねたり、別時念仏会に行ったりしております。

今も有り難い事に御縁合って続けさせて頂いておるのですが、ある時、私は無明にもこのような思想思考に陥っておった事がありましてね。



「仏法を聞いて実践している自分は偉い、お念仏している自分は偉い」



なんとも、法然上人の一枚起請文にあるお言葉の真逆をやってしもうておりました。



「知者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」ではなく、念仏している自分は偉いという、なんとも大きな「三つの髻」を頭に乗っけていたことか。

有り難い事に、浄土宗の教えにも、仏教にも、そういう事になりそうなときに、陥らない安全装置的な教えを内包していて、お坊さんの御縁もあって、気づいて戻ってくる事はできましたが。



プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会の懇親会でも、「瞑想をしている自分は偉いという錯覚に陥らないか」という事を懸念されていた方もいらっしゃったのですが、まさにその懸念されたいたことに私は陥っていました。

だからこそ、禅友・善知識が集う僧伽的なところで、きちんと修正することが肝要であると言うことを、身をもって知ったために、「瞑想会は一回限りではなく、定期的に行って自身の現在地をきちんと知る事が望ましい」と、申し上げているのですがね。



こういう「偉い」と思い、傲慢な錯覚が起こった場合、次にある事柄の一つが、今回の話の本題であります「何々をしないなんて馬鹿だ」という言説です。



これは大概「(俺様が実践している)是をしないなんて馬鹿だ」という、自分がやっていることをしていない人を見下す傲慢な言説であると、私は観ております。

と言いますか、かつての私(今も陥る事常なり)をさかのぼってよくよく観察(かんざつ)すれば、そのように思えてなりません。

そもそも、瞑想をしないなんて馬鹿とか言い出したら、私が「それはちょっと・・・」と何度か申し上げている、「仏法を棍棒にして叩く」という行為でありましょう。



私の場合は仏法・仏教の話ではありますが、それ以外にも、やれ金儲けだの、やれ仮想通貨だの、やれ自分が好きな作品だの、そういった話では、娑婆にはたくさんありそうなものです。

最近でしたら、Twitter界隈では仮想通貨だの金銭が絡む話で、そういうのが見受けられます。

仮想通貨だのアフィリエイトだのなんだので、ちょっとたまたま現世利益と御縁結べたのを、さも自身の実力「だけ」だと盲信して傲慢になり、あげく「何々をしないなんて馬鹿だ」と言い出す始末。

管見の範囲内では存じませんが、一昔前なら、「俺様のサロンに、組織に入らないなんて時代遅れで馬鹿だ、損をしている」というのも、あったのかもしれません。







人に伝える場合、「何々を知らないなんて損、何々をしないなんて馬鹿だ」という余計な事をぶつけないように、気をつけたいものです。

非日常的な体験や成功体験めいた事が自分の身に起こった時こそ、そこに執着せぬ気づきの智慧を

非日常的な体験をしたり、娑婆世界の価値観から観て「成功体験」を頂くと、人に言いふらしたくなったり、傲慢になることもありましょう。

人にはそういう性質がありますし、私にもあります。



それゆえに、そのような事柄が顔を出したとき、「あ、今傲慢な思いに飲み込まれそうになっている」と、気づく智慧を持って、周囲にぶつけぬようにしたいものであります。





非日常的な体験、成功体験などは、あくまで「私にはこういう体験があります。」「このような事を体験しました。」としか言えませぬ。



例えば、私は増上寺にて宗教的な非日常体験をしましたが、それもあくまで「あの日あの時の、私の身において頂いた御縁は何々で・・・~」とまでしか申し上げる事ができません。

間違っても、「増上寺で、あの体験をしていないなんて人生損しているなあ」などと申すことなど出来ませぬ。



非日常的な体験や、成功体験めいた事を体験した時、そこで有頂天になったり舞い上がって突っ走らず、その状態をきちんと「観る」智慧をもって、暴走しないようにしたいもので御座います。



自戒を込めて。自戒なり、自戒なり。



合掌、礼拝

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