魚川祐司さん(ニー仏さん)の「聖なる瞑想と特別な芸術」|龍岸寺での話の感想文

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日、池口龍法上人が住職をされている龍岸寺で、ニー仏さんこと魚川祐司さんが、ゲストとして招かれて話をされるという事で、行って参りました。
上がメイドさんの絵は、「冥土喫茶ぴゅあらんど」という企画のゲストとして招かれているために、「めいど繋がり」ということで。

当日は、にくたんさんとおっしゃる若い女性が、和風メイドの格好をされておりましたぞな。



表題は「聖なる瞑想と特別な芸術」であり、瞑想についての話や、仏教1.0、仏教2.0、仏教3.0の話、プラユキ・ナラテボーさんの話など、色々とありましてね。

私は、魚川祐司さんの講座を受講するのは2回目でありましたが、前回も感じたように、非常にわかりやすく、用いられる例えも面白い上にわかりやすいという印象を頂きました。



そして今回、私は魚川祐司さんが紹介して下さった、数学者の言葉との出会いが、有り難き良縁であると頂いた次第で御座います。



当日聞いた事、学んだ事や感じた事を、感話としてお伝え致します。

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魚川祐司さんの仏教講座「聖なる瞑想と特別な芸術」の予備知識

ニー仏さんこと、魚川祐司さんがゲストとして招かれた話をされた「聖なる瞑想と特別な芸術」の内容に入る前に、前提知識をば。



魚川祐司さんと言えば、仏教に興味がある人ならば、「仏教思想のゼロポイント」と、「だから仏教は面白い!」で、ご存じの方もいらっしゃるかと存じます。

私も以前、「だから仏教は面白い!」から「仏教思想のゼロポイント」と、読み進めた話を致しました。



参照記事:「「だから仏教は面白い!(魚川祐司さん著)」は面白い。」

参照記事2:「「仏教思想のゼロポイント」は「だから仏教は面白い!」とセットで読むべし」



この本については、概要と共に、読み進める順序も、星飛雄馬さんと言う仏教研究者が「60分でわかる!仏教書ガイド」で、解説して下さっています。

この二冊は「だから仏教は」から「仏教思想」の順番で読み進めるのが望ましく、二つで一セットとして読む事により、より仏教の基礎的なこと、ブッダへの理解が深まるかと存じます。

内容も面白いし、魚川祐司さんの深く鋭い洞察も垣間見られる良書であると、私は頂いておりますよ。



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魚川祐司さんは、現在はミャンマーと日本を行き来されて、著述家・翻訳家として活動されています。

執筆活動は、上の本にある通りですし、翻訳については、これも私は良として頂いております、「自由への旅」があります。



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魚川祐司さんについて知りたい方は、まずはこの活動を読まれるのが宜しいかと存じます。



魚川祐司さんの講座で学んだ「プロセスを経る・経験する」ということ

龍岸寺で行われた、魚川祐司さんの話、「聖なる瞑想と特別な芸術」について。

話の中で、私が感銘を受けて、大切にしたいという話が幾つかありまして、その一つが「プロセスを経る、プロセスを経験する」という話です。



どういうことかと申しますと。



魚川祐司さんの話の中では、青原惟信禅師の言葉を引用されていまして、その内容はこんな感じです。



「修行する前は、山は山、水は水に見えたけど、善知識(師匠)に出会って修行したら、山は山に見えなくなった。その後、山を見てはただ是れ山になった。」



抽象度を高めた要約をしますと。



何もしていなかったときは、AはAに見える。

善知識のところで修行したら、AがAに見えなくなった。

更に続けたら、AがAに見えるようになった。



このようなプロセス・過程が見られます。



このことについて、更に魚川祐司さんが、臨済宗の禅僧であられる、細川晋輔さんという禅僧の話を紹介して下さっています。

この話が、実にわかりやすい。


「わかりやすく言うと、静かに月が映える湖面に、わざと波を立てて、その波を鎮めて再び月を見る。同じ月であるが、一度波を立ててから見る月が、真の姿と言う事になるでしょうか。
※魚川祐司さんの講座にて紹介して頂いた、細川晋輔さんの言葉より引用



私は、この話から「プロセスを経る、プロセスを経験することの大切さ」を、直感致しました。

それに加え、以前読んだ「勉強の哲学」という本にも通じる大切な事を教わった気がしたものです。

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「プロセスを経験する」私の理解の仕方、頂き方

魚川祐司さんの、わかりやすい例え話や引用を使って頂いての、「プロセスを経験する」について、私はピンっときた話が御座います。

それは、「360度回って新しい」という、ギャグや笑い話で使われる言葉です。



180度回ると、真逆と言う事になりますが、360度回ると、結局元の位置、元の視点に戻るわけですから、「意味無いじゃん」というのが、よく言われる事でありましょう。

しかし、まさに私は、魚川祐司さんの、この「プロセスを経験する」という話を頂いた事により、「360度回って新しい」の頂き方に変化が生じました。

これは、千葉雅也さんの「勉強の哲学」にも通じる話であろうかと、私は頂いておりましてね。



大雑把な話にはなりますが、どういう事かと申しますと。



0度のままでいる、つまり何もしないで全く動かないと、変化はありません。

眼前に広がる景色も変化がなく、比較対象も御座いません。

その眼前に広がる景色は、固定的な事柄です。



そこで、360度ぐるりと回るというプロセス・過程を経験すると、どうなるか。



ぐるりと回って、戻ってきた景色そのものは、固定されているわけですから、変化はありません。

しかし、360度回ってみた景色との比較が出来るという要素が、備わっている事により、「90度との比較、180度と比較」という見方が出来ます。

この時点で、複数の視点から、元の位置、元の景色を見たり、その事によって論じることが出来るようになっているという構造が御座います。

わかりやすく言うならば、よく言われる「複数の視点を持つこと」に繋がっています。



360度回った時、「ああ、やっぱりこの景色はこうなんだ。」という感想を漏らしたと致しましょう。

ここで肝要な事は、「やっぱり」と思うための経験をしているか、プロセスを経ているか、ということです。



私は、今回の魚川祐司さんの話から「360度回って新しい」というのは「360度回ったことにより、新しく見たり論じたり出来るようになっている」という頂き方をするに到りました。

プロセスを経験する事を大切にしたい:私の場合の具体的な話

魚川祐司さんがして下さった、この「プロセスを経験する」「波無きところに波を立てる」という事は、仏教を学んだり、仏教に限らず色々な勉強をすることにも通じます。



例えば、私ならば、まさにこの寺院(ブログ)で、それをやっておりますね。



私は、仏教を勉強しながら、言語はRuby中心ですが、プログラミングを学んでおります。

そうすると、プログラミングの勉強や実践というプロセスを経験しているから、仏教のこの話は、プログラミングではこのように言う事が出来る、という出力の仕方にも繋がっております。

逆に、例えばRuby on Railsというフレームワークについては、結局は同じ理解に帰着したとしても、仏教を学ぶというプロセスがあれば、より深いところまで理解出来るに到る、という事も御座います。



もっと具体的な「効能」の話をするならば、表現の幅も増えましょう。



例えば、プログラミングに興味がある仏教徒に、Ruby on Railsの特徴を説明する時、私ならこのように出来ます。

「Ruby on Railsは、設定より規約を大切にしています。規約は堅苦しいものではなく、実は開発が暴走しないように守ってくれている事なのです。あたかも、戒が守ってくれているかの如く」

まあ、「戒が守ってくれている、戒によりて自由である」という話は、プラユキ・ナラテボーさんの話が共通土台としてないと、伝わりにくいかも知れませんがね。



このような話が出来るように到ったのは、仏教とプログラミングを学習・実践するというプロセスを経たからと言えましょう。



この「プロセスを経験する」「波無きところに波を立てる」という事を、魚川祐司さんは「ゆらぎ」と仰いました。

私は、この「ゆらぎ」が、とても大切であると頂いております。



確かに、なかなか着地できない状態というのは、居心地の悪さであったり、何らかの気持ち悪さも経験する事になりましょう。

でも、それは「ゆらいでいるから起こる事」であり、この気持ち悪さを経る事が「勉強の哲学」で千葉雅也さんも説いて下さる「勉強が内包する要素」であると、私は考えております。



わざわざ360度回らなくても良いけれど、あえて360度回ってみる。

その時の「ゆらぎ」によって生じる、気持ち悪さや違和感も引き受ける。

そうして360度回って戻ってきたときに、古い感覚も知った上で、「360度回ったから見える新しい景色」も見えるようになる。



勉強や修行の醍醐味は、ここにあるのかもしれません。

魚川祐司さんが紹介して下さった、ある数学者の言葉

最後に、今回の魚川祐司さんから色々と頂いた話の中で、私が最も感銘を受けた言葉を紹介させて頂き、締めくくると致します。



魚川祐司さんは、話の最後辺りで、岡潔さんという数学者の話をして下さいました。

岡潔さんは数学者であり、そして念仏者でもあった方です。

なんでも、毎朝1時間はお念仏されていたという話ですから、妙好人的な人だったのかなあ、と、私は勝手に推測しておったり致します。



何にせよ、魚川祐司さんが初回して下さったお陰様で、岡潔さんの本に興味を持ちましてね。



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この本に目を付けていたりします。



岡潔さんは、このような言葉を本で記されています。


理性的な世界は自他の対立している世界で、これに対して宗教的な世界は自他対立のない世界と言える。

自他対立の世界では、生きるに生きられず、死ぬに死ねないといった悲しみはどうしてもなくならない。



人はなぜ向上しなければならないか、と開き直って問われると、いまの私には、「いったん向上の道にいそしむ味を覚えれば、それなしには何としても物足りないから」としか答えられないが、向上なく理想もない世界には住めない。

だから私は純理性の世界だけでも、また宗教的世界でもやっていけず、両方を兼ね備えた世界で生存し続けるのであろう。
※岡潔さんの「春宵十話・宗教について」より引用

魚川祐司さんから、この言葉を頂く御縁を賜ったのは、本当に有り難し。



純理性だけではなく、宗教的世界だけでもなく。

現代社会では、科学信仰と言いますか、「非科学的な事は悪だ」というような事を言う人もいます。

これは、典型的な純理性に偏った典型例ではないかと、私は見ております。

逆に「科学は神・仏に背く事である実に怪しからん科学は悪だ」という人も、私は会ったことはありませんが、いらっしゃるかと存じます。



そうではなく、純理性だけではなく、宗教だけでもなく、どちらも持った上でゆらぎ続ける事が肝要ではないか、そのような事を考えさせて頂く機縁となりました。



両方を兼ね備えた世界で、ゆらぎながら生きる事。



そのような在り方を、言語化した形で頂けたことに、感謝という意味で有り難さを感じる、魚川祐司さんの講義でありました。



そして、最後に、このことを申し上げておきたい。



「だから仏教は面白い!」は、面白い。

そして、読まれるならば、「仏教思想のゼロポイント」とセットが宜しかろう。



合掌、礼拝

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