浦崎雅代さんのツイキャスで学んだ事|ブッダの言葉「筏の譬え」

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日、カンポン・トーンブンヌムさんの本をお伝えした時、翻訳して下さったのは、浦崎雅代さんと、プラユキ・ナラテボーさんであるという事も伝えております。

浦崎雅代さんは、タイで活動されている方で、タイ仏教を日本語に翻訳して下さっている方です。

カンポン・トーンブンヌムさんの本の翻訳をはじめ、最近ではパイサーン・ウィサーロ師の説法をKindleで読めるように電子書籍として世に出して下さっています。

こうして、タイ仏教に触れる事が出来る御縁を頂ける事は、非常に有り難し。

浦崎雅代さんや、プラユキ・ナラテボーさんの活動がなければ、知る機会も無かったであろうと思うと、有り難く尊い事に御座います。



そのような御縁があり、先日、浦崎雅代さんがツイキャスをされると言う事で、聴聞することに致しました。

ツイキャス本番放送では、魚川祐司さんの見事なファシリテーション・質問によって、貴重な時間を過ごさせて頂いたものです。

魚川祐司さんと浦崎雅代さんは、カンポン・トーンブンヌムさんが現世にいらっしゃった頃に、3人でツイキャスをされたこともあります。

魚川さんと浦崎さんのツイキャス対談、また聞けたらなあ、と思う今日この頃。



今回は、浦崎雅代さんのツイキャスから、私自身を戒める教えを頂きましたから、その事をお伝え致します。

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浦崎雅代さんについて:翻訳本や活動をさらりと

浦崎雅代さんのツイキャスについて、私が学び己を顧みる御縁を頂いたという話の前に、さらりと浦崎雅代さんの翻訳本や活動について、さらりとお伝えしておきます。



浦崎雅代さんは沖縄県出身で、琉球大学で学ばれて、2010年にタイの大学に就職されています。

そこでタイの男性と国際結婚をされて、その後はフリーランスとして活動されています。



現在は、タイと日本を行き来して、タイの仏教を翻訳して本にしたり、沖縄でカンポン・トーンブンヌムさんに関連する行事や、開発僧を招いての説法を開いて下さっています。

カンポン・トーンブンヌムさんは、沖縄で公演された事もありまして、現在はYouTubeでも視聴出来るようにして下さっています。



日本で確認出来る、浦崎雅代さんの活動は、noteやブログ、Amazonの電子書籍などがありますね。

noteは、月額500円で読めます。



参照先:「浦崎雅代さんのnote」



翻訳本は、この一冊は外せないでしょう。



本の著者はカンポン・トーンブンヌムさんで、翻訳されたのが浦崎雅代さんとプラユキ・ナラテボーさんです。

そして、監修と序文を書かれた上田紀行さんは、浦崎雅代さんのお師匠さんと言いますか、先生だそうな。

そういえば、上田紀行さんは、確か近々池上彰さんと対談公演だか何か、される予定だったと、今思い出しました。
(2017年6月19日(月)の時点での思い出し)



カンポン・トーンブンヌムさんの本については、以前も話した事がありますね。



参照記事:「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌムさん著)の読書感想文」



また、「マンペンライとタムレンレン」について学んだときも、浦崎雅代さんの御縁があって、という話もしております。



参照記事:「マンペンライとペンライ・クリアットの活かし方|バランスを取る働き方や仕事の智慧」



マンペンライとクリアットは、プラユキ・ナラテボーさんから学んだタイの言葉であり、それを実践されている様子を知ったのが、浦崎雅代さんのTwitterでのつぶやきでありました。



このような御縁により、浦崎雅代さんのツイキャスを聴聞する機会が御座いまして。



そこで私は、次のようなことを学んで行ったわけであります。

浦崎雅代さんのツイキャス:ホームさんへのインタビュー

御縁ありまして、浦崎雅代さんのツイキャスを聴聞する機会があり、その時のツイキャスの内容は、ホームさんというタイの男性へインタビューする、というものでした。



ホームさんという方は、浦崎雅代さんと結婚された方で、以前はお坊さんとして修行をされていました。

ツイキャスでは、ホームさんがお坊さんとして修行されていた時に出会われた、「プッタタート師」についての話をして下さっています。



私、Twitterで「復習したいから録音して頂ければ助かります」と、わがままを言うたのですが、それを叶えて下さり録音放送を聴けますよ。

本当に、わがままを申し上げたところ、録音して頂けて、有り難い事に御座います。

お陰様で、今回の話を投稿する事が出来て、私がやらかしていることにも気づかせて頂けた良縁賜るに至りました。
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プッタタート師の本や言葉から学ばれたホームさんの話:ブッダの言葉「筏の譬え」

浦崎雅代さんのツイキャスでは、ホームさんがプッタタート師から学んだ事、本やプッタタート師が伝えて下さるブッダの言葉について、述べられています。

その中で、私も聞いた事はありますし、現在学んでいる「100分de名著:維摩経」でも学んでいる内容が紹介されましてね。



それが、ブッダの言葉「筏の譬え」です。



参照記事:「NHK100分de名著「維摩経」(釈徹宗さん解説)第1回の放送を視聴しての復習と感想文」



「筏の譬え」を、さらりと復習しておきますと。



ブッダは、「法を筏のように使え」と仰り、その理由は、次のようなものです。



「法は、煩悩を乗り越えるために使えば宜しい。それは川を渡るが如く。しかし、陸に上がったら、筏を捨てればよい。」



これは、法にも執着しない事、法にしがみつかないという事を教えてくれている、という解説が、よくなされる話です。



ここまでは、色々な仏教の本、お坊さんが易しく書いて下さる仏教入門的な本でも、見聞きする話です。

「筏の譬え」から学んだ事1:筏を担いで山に登るという事をやっておらんか

「筏の譬え」についてお伝えするならば、ブッダの言葉が書いてある本か、関連の本を読んで下さいね、で済む話です。



ここで私が、浦崎雅代さんのツイキャスを紹介しつつ、私が学んだ事、私の頂き方をお伝えするのは、知識として知っただけでは無く、己の愚行を顧みた事によります。

いや、ほんと、これから話す事は、私もようやってしまっているなあ、と、改めて反省するところでありまして。

反省しても、すぐに忘れてまたしても愚行やらかすところが、私が煩悩具足なる凡夫ゆえでありましょうが。



「筏の譬え」では、筏(法・仏法)を使って煩悩の川を渡りきったら、筏を捨ててしまってもよいよ、と、ブッダが説いて下さっています。

「いや、筏を担いで陸を歩く奴なんて、いやしませんよ。」と、考える事でありましょう。



しかし、娑婆世界では、いざ煩悩であったり、困難を乗り越えた場合、乗り越えた要素や法・方法を「これはすげえ!大切に持っておこう!」と、思う事もありましょうし、そういう経験、ありませんかね。

そして、次の煩悩を刺激される事柄や、困難がやって来た時に、「前に使ったこの法や方法で上手く行くはずだ」と、やらかす始末。



私は、パターン化したら一気に行けるタイプなのですが、パターン化するまでがもの凄く労力かかるものでして、ついつい以前に上手く言った方法にしがみつきやすい性質(さが)でありまして。

耳が痛い話であります、筏の譬え。



浦崎雅代さんのツイキャスでは、ホームさんが話してくれた事に(浦崎雅代さんが翻訳して下さって)、ここから更に「筏を担いで山を登る」という話をして下さいましてね。

これがどんどんはまり込んでいくと、筏を担いで登山しているという、「あいつ何やってんだ?」とか、某格闘家の「お前は何を言っているんだ?」という、あの画像を貼り付けられる事をやらかしかねない自体にもなります。



この話を頂いた時、「ああ、私も筏を担いで山登りしちゃってるんじゃなかろうかなあ。」と、反省するに至ったわけです。

「筏の譬え」から学んだ事2:知者の振るまいやマウンティングするために法を使ってしまっている私

浦崎雅代さんの、ホームさんへのインタビューによって、プッタタート師について伝えて下さるツイキャスで、その他に学んだ事としては、次のようなことが御座います。

そして、これが更に大切な事で、私も「うわあ、やらかしちゃってるのではなかろうか・・・。」と、猛省をした事に御座います。



私は、ついつい聴き入ったり、「自分の方が間違っているのではないか」という思考や性格です。

いわゆる、いじられ体質と言いますかいじめられ体質と言いますか、「こいつなら、これくらいやっても大丈夫だろう」とか、そう思われやすいタイプです。

ゆえに、むしろ以下に話す事はやられまくる方のタイプなのですが、だからこそ、その腹いせに、叩けそうな人を叩くような、そんな愚行をやらかしていなかったか、と、猛省するところでありまして。



世代によってはご存じ無いかも知れませんが、ブルーハーツというグループの歌にもありましてね、こういうの。

「弱い者達は更に弱い者を叩く」

この歌詞、「弱い者達は夕暮れ~」なのですが、現在はTwitterやFacebook等のSNSにて、夕暮れに限らず、24時間叩く事が出来る環境が整っておりますから、あえて「夕暮れ」を外しました。



歌はさておき。



このことは、聴いている人も凄く勉強させて頂ける質問をして下さっている魚川祐司さんも、Twitterでたびたび伝えて下さっている事でもありまして。



それはどういうことかというと、「無自覚なマウンティング」という話です。

正論だとか自身の正しさを振りかざして、相手を論破したりマウンティングしてたたき伏せる、という、そんな感じです。



仏教の話においては、「仏法ではこう言っている。そして、そこから外れるようなことをしているお前は駄目な奴だ、怪しからん!」と、そのような場面が一例でありましょう。

仏法を振りかざして、自他の抜苦与楽どころか、相手に苦を与えまくるという事をやらかす、という事です。



私もよく、この寺院(ブログ)で、「仏教では」「仏教的には」と言って、そこから話を展開することがあります。(大して分かってもおらんのに。)

その後で、「だからこういう奴は駄目なんだー。」と、特に詐欺師相手にはやってしまいます。

トレンドアフィリエイトコンサルタントという詐欺師共には、左ストレート叩き込んでやりたいという煩悩があり、法でたたき伏せるようなことも、やらかしていますからね。

(↑この発言自体、自称なんちゃらコンサルタント=悪・詐欺師、と、決めつけていることを自覚していますが、言わずにはいられない凡夫です。)

また、フランク・ザッパさんではありませんが、自覚的ではありますが、それでも、己が気づかぬ無自覚なマウンティング行為をやらかしていることも、どこかにありましょう。



今回の「筏の譬え」を用いるならば、筏を担いで陸に上がった後、次々と筏でマッハ叩きしているようなものです。

場合によっては、相手が完全に参ってしまうまで、いわゆる「はめ技」的な使い方で追い詰める、とかね。

(マッハ叩きとかマッハ系の技で、一発当てたら試合終了、というゲームバランスのゲームがありまして。ファミコン世代では無い方は、くにお君の大運動会とかは知らんでしょうかなあ。)



ゲームの話はさておき、筏でマッハ叩きしてしまうというのが、「筏(法)に執着しているもの」がやらかしてしまう事もあろう業(行為)です。



浦崎雅代さんのツイキャスで、ホームさんは、プッタタート師の本から学んだ「筏の譬え」の話の中で、このことについても教えて下さいました。

浦崎雅代さんのツイキャスと、法然上人の御教えに学ぶ

今回は、浦崎雅代さんのツイキャスから学ばせて頂いた「筏の譬え」から、己を顧みる話を致しました。



私は、どちらかというと叩かれる側に回るタイプであると、自覚しております。

先日も、いきなり「間違ってますよー!」とか言われて、くどくどと言われてしまいましてね。

私、結構「ああ、こやつは私のことを喧嘩が弱そうに見えるからって見下しておるなあ。」と、直観・直感する事がしばしば御座いまして。



ただ、だからこそ「腹いせに、叩ける奴を叩いてやるぜ、こっちにはブッダの教え、仏法があるんだ。」とか、やらかさないように、逐一気づく事が肝要であると頂いております。



その事を、きちんと頂けるきっかけとなるのが、今回の浦崎雅代さんのツイキャスであったり、私の場合でしたら、法然上人の御言葉・御教えに御座います。



浄土宗の勤行では、「一枚起請文」という文を頂きます。

私は毎日頂いておりまして、この「一枚起請文」の中には、このような箇所があります。



「智者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」



私は、この「智者の振る舞いをせずして」は、生活信条としても頂ける御言葉であるというお味わいで、頂いております。



こうして、寺院(ブログ)を綴っているときも、実は「これって、智者の振る舞いでは無かろうか?」とか、ささやきかけられており、その中で執筆・投稿しております。

それでも、よくやからしているんだろうなあ、と、気づかぬ処、無自覚な愚行を思うておるのですがね。

気づかないからやらかす、とも言えましょうが。



浦崎雅代さんのツイキャスで学ばせて頂いた「筏の譬え」と、法然上人の御言葉を大切に、「筏でマッハ叩き」をしないように、気づける智慧を育んでいく次第で御座います。



ここまで書いて、気づいた後の、次の一歩を考えた時、プラユキ・ナラテボーさんの「善き縁」や「自他の抜苦世楽」を、思い出しました。

浦崎雅代さんとプラユキ・ナラテボーさんの対談、ツイキャスであったらいいなあ、と浮かんできたのは、私の煩悩でしょうかね。



合掌、礼拝

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