浦崎雅代さんと釈徹宗さんの大阪での対談|自身の有り様を改めて突きつけられる

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日、2018年11月23日(金)に、大阪で浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談が開催されるということで、行って参りました。


釈徹宗さんとどなかたかの対談は、小出遥子さんとの対談を聴聞しにいったことがありまして、浦崎雅代さんとの対談も楽しみでありまして。

浦崎雅代さんを間近で伺うのは、今回が初めてという事もありましてね、時間の都合とプログラムの関係上、直接お話しする機会はありませんでしたが、有り難き御縁を賜ったもので御座ります。



対談では、今年発刊された「いのちの最後の授業」をベースに、タイのことや死生観について、色々とお二方が話をして下さいました。

そして、話を聞いているうちに、自身の臨終のこと以外にも、色々と改めて突きつけられて、考えさせられることがありまして。



今回は、その辺りの内容について、自身の考えをまとめるということにもなろうかと思い、綴っていくことと致します。



尚、会場では、撮影や録音は不可ということもあって、会場の写真などの掲載は一切致しませんし(そもそも出来ませんでしたし)、あまりにも個人を特定しすぎるような内容の話には触れません。

また、話のベースとなった本や、釈徹宗さんの新刊につきましては、最後の辺りで紹介しておきます。

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浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談:内容を少しだけ

今回、大阪の蔦屋書店にて行われた、浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談。

浦崎雅代さんは、日本に帰国されてから、名古屋で講演された後の対談ということです。



ちなみに、私は初めて大阪駅近くの蔦屋書店に行ったのですが、釈徹宗さんがTwitterで事前に仰っていた通り、独特の雰囲気がありました。

書店ではありますか、何かこう、海外の映画で撮影に使われそうな独特の雰囲気を感じたものであります。



19時が少し過ぎて、浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談が始まりました。



最初は、お二方の紹介と、浦崎雅代さんのタイについての話。

バンコクは、物凄く都会と言うことで、コンビニエンスストアなども結構あるとか。

一方でお坊さんがいらっしゃったりと、2500年前の姿と最先端の姿が同居しているという、なんとも興味深い風景が見られる、とのことです。



そして、スカトー寺やライトハウスの話もあって、カンポン・トーンブンヌムさんの話へ。



カンポン・トーンブンヌムさんは、在家のまま仏道を歩み続けられ、苦しみを脱して、臨終の際も、そして臨終の後も、命の授業をしてくださった、という話を頂きました。

途中、YouTubeにアップロードされている動画も視聴させて下さいまして。







その後、浦崎雅代さんと釈徹宗さんが、キューブラー・ロスさんの話や、タンブン(徳を積む)についての話など、色々として下さいました。



釈徹宗さんの話で、特に記憶に残ったのが、「ごさいそく」の話です。

広島の安芸というところでは、「ごさいそくじゃなあ。」という言葉が聞かれるそうな。

これは、「生きていることと向き合え」という、仏からの催促という意味だそうで、興味深い話を頂いたものであります。



この辺り、やはり釈徹宗さんは博学・博識であるなあ、と、改めて思うたところに御座いまして。

加えて、時折笑いを誘うような話をされたりと、釈徹宗さんは話し方も上手い人なのだなあ、と、改めて観じたものであります。



そうして、質疑応答の時間も設けて下さり、それも終わって、浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談が終了。

私は、時間の関係もありまして、そのままお暇致しましたが、初めて浦崎雅代さんの講演を、釈徹宗さんとの対談という形で、直に聴聞する事ができて、有り難き御縁に御座りました。



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浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談を聴聞して考えた事:身口意の三業で「引き受ける」を体感したけれど

浦崎雅代さんと釈徹宗さんによる対談を、大阪にて聴聞してから、改めて考えた事、私に突きつけられたことが御座います。

対談で、釈徹宗さんが何度か「引き受ける」という言葉を伝えられました。

引き受ける、ということを聞くと、私は、龍岸寺にて坐禅を行じていた時に、体感したことを思い出します。



「この身に起こること、起こったことは、この身で唯々引き受ける」



この身に起こったこと、例えば、音が聞こえたり、坐っていて足が痺れたり、等々のことは、全て自身において引き受けることであり、誰にも肩代わりして貰えぬということ。

そのことを思い出し、私は「臨終の際も、私が唯々この身で引き受けていくのであるなあ。」と、思うたことに御座います。

そして、カンポン・トーンブンヌムさんは、この「引き受ける」ということを、苦なく自然なるままに貫かれた人であるのだなあ、と、思うたものであります。



ただ、では今、私が、本当に臨終の際に、きちんと引き受けきる覚悟があるかと自身に問うてみると、怪しいものです。



禅僧である良寛さんは、「死ぬる時節には死ぬがよく候」という手紙を出されています。

もし、私自身が臨終の際に、そのような言葉を言われたら、果たして、臨終もこの言葉も、ただただ引き受けきることができるであろうか。



対談ではそのような問いを見出し、自身の有り様を改めて見つめ直す御縁となりました。

このことについては、以前も話したことがありましたね。



参照記事:「「いのちの最後の授業」読書感想文:後編|比丘と浦崎雅代さんのメッセージに学ぶ」



「命の最後の授業」で、浦崎雅代さんが、「生老病死は自然なものだと悟ったように言う人はいるが、実際にその身にて証明できる人は、どれだけいるであろうか」と記されています。



今、私は良寛さんの言葉を引用しましたが、良寛さんの言葉を引用して、さも悟ったかのように、こういうことをやる人って、いませんかね。

「昔のお坊さんがさ、死ぬる時節には死ぬがよく候、て言ってたよ、臨終が来るのは自然なことだ、そして、自分は自然に受け入れられるさ。」と。



言うのは勝手やもしれませぬが、自然体仕草ではなく、本当に自然(じねん)を体現できておるか、と問われると、果たしてどうでしょう。



私は、生老病死についてであったり、浄土宗の教え、阿弥陀仏の本願を学んだり毎日お念仏してはおりますが、本当に引き受けきることが出来ておるのかどうか、疑わしいものです。

歎異抄第九条で、唯円さんと親鸞聖人が「私、浄土に行きたいと心から思わんのです。」「実は私もだ。」という場面と、通ずるところがあるのやもしれません。



仏教を学び実践し、生老病死を分かった気になって、臨終の際も右往左往せずに往生できる自身であるかどうか、改めて自身の有り様を突きつけられた、そのようなところに御座います。

愛別離苦を引き受けられるか、を突きつけられる

私は、浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談にて、上述したような自身の臨終の際を問うと同時に、突きつけられた問いを観じておりまして。

それは、「他者の臨終、愛別離苦」についてです。

自身の臨終は覚悟が出来ても、愛する人の臨終ではどうだろうか、ということです。

この辺り、しんらん交流館で釈徹宗さんが「自身の場合は延命をしなくてよいと思うても、愛する人の場合は延命したくなるのではないか」ということを問われたときも思うたことであります。



きちんと仏道を歩み行じていくことで、自身の臨終について苦なく引き受ける事ができたとしても、果たして、親しい人の臨終において、私はどのようであるか、という問いを、改めてしたものです。

家族であったり、親しくしている人が臨終という時、愛別離苦を言葉や概念としてだけでは無く、身口意の三業にて引き受けきることが出来るかどうか。

そのことを、対談の時に上映された動画を視聴して、改めて考えさせて頂く事となりました。



浦崎雅代さんは、タイでは葬儀の時も、人々はいつも通りの感じであると教えて下さいました。

そりゃあ、愛別離苦の悲しみは、人によっては幾許かありましょう。

ただ、人々がそのようであるのは、愛別離苦に執着せず、それを引き受けている姿ということではなかろうか、そのようなことを思うに至りました。



このようなことを思うと同時に、私はどうであろうか、愛別離苦にのたうち回ったりするのではなかろうか、「死ぬる時節には死ぬがよく候」は口先だけ、観念だけで全く体感できておらんのではなかろうか、そのようなことを、自身に問うたものです。



今回の対談では、このような問いを頂く御縁となり、自身の有り様を改めて突きつけられ、どう行じていくかを考えるきっかけとなりました。

お二方の著書を紹介して、お開きと致します

今回は、大阪で開催された、浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談にて、私が考えたり、改めて自身を問うたり、突きつけられた事柄について、お伝え致しました。



最後に、冒頭でお伝えしました通り、今回の話に関連するお二方の著書を二冊お伝えして、お開きと致しましょう。



まずは、今回の話のメインとも言える、カンポン・トーンブンヌムさんの講演や至言が収録されている「いのちの最後の授業」です。





この本につきましては、以前に感想文を書いております。



参照記事:「「いのちの最後の授業」読書感想文:前編|カンポン・トーンブンヌムさんから頂く仏法と智慧」

参照記事2:「「いのちの最後の授業」読書感想文:後編|比丘と浦崎雅代さんのメッセージに学ぶ」



対談では、80頁にある「知る人、ハマる人」について、釈徹宗さんが話をして下さいました。



釈徹宗さんの本は、最近でしたら、「異教の隣人」が御座います。
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釈徹宗さんは真宗僧侶であられますが、「法然親鸞一遍」や、世界の六つの宗教についての入門書とも言える本を出されていて、宗教全般に明るい人であるという印象を持っております。



そして、対談に行かれた人ならば、グループホームの話も聞かれたと記憶しておりますが、それにつきましては、こちらの「お世話され上手」も読んでおくと宜しいかと存じます。


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ちなみに、「お世話され上手」とキーボードで打ち込む度に、ATOKを使っている人ならば、「敬語の誤り」と警告が出ませんかな。

私、この警告が出る度に、「そうはいってもねえ。」という気分になります。



今回の対談にて、自身の有り様を改めて考えることとなりました。



私は、毎日お念仏しながら、勤行の最後辺りでは、白骨の御文章と黒谷和讃を読ませて頂いております。

浄土宗の正式な勤行では、白骨の御文章は読まないのですが、「我やさき人やさき」が「人やさき人やさき」になったり、愛別離苦を引き受けられるであろうか、ということを忘れぬようにという戒めとして、読ませて頂いております。

しかし、そこから一歩離れると、それを忘れて日常に埋没する、の繰り返し。



だからこそ、勤行という形で、毎日頂き続けて、行じて行く事が肝要であろうか、そのようなことも考える御縁となりました、浦崎雅代さんと釈徹宗さんの対談でありました。



有り難き仏縁なり。



合掌、十念、礼拝

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