御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
先日、Twitterの御縁で、松村圭一郎さんの「うしろめたさの人類学」という本を知る機会が御座いまして。
私は、なんとも言えぬ、上手く言語化出来ぬ「もやもや」や、苦悩を常に抱えており、そのようなこともあってか、妙に「うしろめたさ」という言葉に、ピンとくるものが御座いました。
(「うしろめたさ」というのは、別に私が何か法律に触れるような犯罪行為に手を染めているから、とか、そういうのではありませんからね、念のため。)
また、大学で人類学、私の場合はボノボや人類の進化についての入門講座を、一般教養の科目として学んだ御縁がありまして、「人類学」の部分にも、何やら惹かれるものが御座いました。
そのような御縁で、出会わせて頂いた、松村圭一郎さんの「うしろめたさの人類学」という本。
読んでいる最中も、読了後も、私を揺さぶって下さる、揺らぎを頂けたというお味わいを頂いた、というのが、率直な読書感想文、読了語の感想です。
これは、もしかしたら、私が日々仏法を頂き、そうしてゆらゆらと揺らぎ続けている事を、肯定して頂けたような、そんな事もあるのやもしれません。
そして、改めて、揺らぐことの肝要さ、「当たり前」を問う事を学ぶ御縁となりました。
また、そこから現代社会における宗教の役割について、宗教的なアプローチについても、再度考えるに至りまして。
今回はこのような、「当たり前」を問う事によって揺らぎながら歩む事、現代における宗教に触れる事、宗教的な思想や考え方を活用して物事に接する事の話を、してみる所存に御座ります。
Contents
うしろめたさの人類学(松村圭一郎さん著)の大まかな内容
今回、私が購入して読了した、松村圭一郎さんの「うしろめたさの人類学」について、まずは大まかな内容紹介から。と、いっても、知的財産権・著作権の課題がありますから、内容そのもの、全文引用なんて事は致しませんから、その辺りはご了承をば。
本書は、1章から最終章まで7章御座いまして、それ以外には、「はじめに」と「おわりに」という構成です。
1章からそれぞれ、「経済」や「国家」「関係」「社会」といった具合に仕立てられております。
各章の終わりから次の章に映るまでに、著者である松村圭一郎さんの、学生時代のエチオピア滞在記が挟まれております。
松村圭一郎さんのエチオピア滞在記は、1999年のエチオピアの様子が記されております。
この記事を書いているのが2017年10月ではありますが、20年近く経過している現代社会でも、考えさせて頂ける話も御座います。
むしろ、現代・現在だからこそ、きちんと今一度考えるべき事柄では無かろうか、という話が、157ページのエチオピア滞在記に御座いましてね。
各章は、上述したように「経済」であったり「国家」であったり、それぞれ主軸とするテーマがあります。
ただ、読み進めれば感じる人も多いだろうと勝手に想像しておりますが、各章の主軸はあるものの孤立しているという事ではなく、全てが関連し合っている、という感じが致しました。
本の大まかな内容は、このようなところです。

「うしろめたさの人類学」の読書感想文1:私の「うしろめたさ」の正体に近づけたかも
本の表題・タイトルに惹かれ、その御縁で、今回購読しました、松村圭一郎さんの「うしろめたさの人類学」。私は、「私が何となく現世で感じ続けて居る「居心地の悪さ」や「もやもやした感じ」「揺らぎ続けて着地出来ぬ苦悩」について、何か分かるかも知れない」という、期待が御座いました。
そういう期待を持って読書をするというのは、仏教的には「未来への執着」とも捉えられる気もしますが、私が煩悩具足なる凡夫ゆえの事でありましょう。
結果としては、居心地の悪さであったり苦悩、揺らぎは消えてはおりません。
ただ、「揺らぎ続けて生きても、苦悩を抱えながら生きても、ただそうであるのだなあ。」という、上手く言語化出来ませんが、肯定的な味わいを頂けたもので御座います。
そして、「うしろめたさの人類学」を読み終えて、付箋を貼っておいた気になる箇所を再度読んで、私の抱える「うしろめたさ」の正体に、幾許か近づけた、そのような感覚が御座いました。
私は、昔から「標準偏差」だとか、分布図やグラフの類いを観る度に、いつも思う事があったのです。
標準偏差と言いますと、大体が平均値の値が高くて、両端がすぼんでいく、というものです。
そして、それを元に最大公約数的な政策を打ち出したり、そういうビジネスを展開するのが、現代社会でよく見られる事柄です。
私、こういう事柄を見る度に、「そのグラフの両端の人や、枠から外れた人はどうするんですか?」という問いが、ずっとありましてね。
また、高校時代の話ですが、古文の授業で、「いとおかし」とかいうてる貴族の話を学んでいる時に、どうしても効きたくなった事柄が御座いましてね。
それは、「貴族が恋愛で苦しんでいる様子は、まあ、わからんでもないが、では、彼らの食事などを作っている人達や、その食べ物の元となっている農作物を作る人の事は、どうなるんだ?」という問いです。
当時の古文担当の先生に、直に問うたら「いや、今はそんな事考えなくていいから。」と、応えて頂けませんでしたがね。
こういう「光を当てられていない存在」を、私はどうしても視野から外すことが出来ず、気付いた以上、誤魔化しがきかなくなる、という経験をしております。
だから私は、「タイムスクープハンター」に「お。」と、興味惹かれたり、庶民史に惹かれるのでありましょう。
もちろん、物事を進めていく内に、どこか線引きせんと行かんことも御座いましょう。
ただ、線引きしたら線引きしたで、線引きしたが故に外れる対象も現出しましょう。
私は、そこに「うしろめたさ」を感じる事があるのです。
その辺りを、松村圭一郎さんは「うしろめたさの人類学」において、「境界線と越境行為」という言葉を用いて、「うしろめたさ」との付き合い方や進み方のヒントを伝えて下さっている、私はそのようにお味わいを頂いております。
このように、読みながら自身の居心地の悪さ、何となく観じていたモヤモヤは、「あぶれる存在を観た事による、誤魔化せぬがゆえのうしろめたさ」ではなかろうか、と、思えるようになりました。
モヤモヤの正体、漠然とした居心地の悪さ、標準偏差のグラフや分布図に観てきた、あの違和感やムズムズの正体に、近づけた気がしたものです。
うしろめたさの人類学の読書感想文2:「当たり前」を問う事で自身のフィルターを知る
松村圭一郎さんの「うしろめたさの人類学」で、私が学び読み取った事柄に、「当たり前を問う」という事が御座います。また、これは「はじめに」にも書かれており、読めばピンとくる人もいらっしゃるかと存じますが、「正常」と「異常」について問う、という言い方をしても、宜しいかと思います。
一体、何を持ってして、「当たり前」だとか、「これは正常である」と思うか。
何をすれば、どういう在り方が「異常である」と見なされるか。
そもそも自分は、どのようにして「正常」だの「異常」だのと振り分けているのか。
自身が「当たり前」を問うという事は、すなわち、自身が「当たり前」としている「正常」と「異常」を振り分ける分岐装置やフィルターを知る、という事ではなかろうか、と、私は本書を読んで考えております。
そしてこれは、まさに「自身を知る・自己を知る」という事にも繋がりましょう。
就職活動において、やれ自己分析が大切だとは言いますが、これも一つの自己分析・自己解析の形であろうと思うのでありますがね。
この「自身を知る・自己を知る」に繋がる「当たり前を問う」事について、その方法の一つが本書で伝えて下さっています。
それは、39ページにありまして、ちょいと引用させて頂きます。
他者の振る舞いから、自分自身がとらわれていた「きまり」の奇妙さに気づくことが出来る。人の振り見て、我が身を疑う。
※松村圭一郎さん著「うしろめたさの人類学」39ページより引用
私は、この箇所を読んだ時、「きまり」と言うのが、自己が生きてきて培ってきたフィルターであったり、先入観の事ではなかろうか、と考えるに至りまして。
そして、「きまり」が強固になった状態が、「当たり前」という状態であり、「きまりを問う」という発想すらしなくなるというところに行き着くのではなかろうか、と考えました。
この「きまり」が強固になりすぎた場合、内側から問うて気づくに至るには、なかなか到達しにくいものです。
そこに「他者の振る舞い」なり、何らかの外部刺激によって、揺さぶられる事が御座います。
それをきっかけに、「当たり前」と思うて来た事、「当たり前と思って行動してきた事柄」を問い、そうして自身を知る。
このように読んだ私は、改めて、「当たり前を問う事」は、自身の「きまり」を知り、調えるべきを調えるに繋がる肝要な事柄であるという事を、味わった事に御座います。
あ、この「当たり前を問う事が肝要」というのも、私の現段階におけるフィルターですな。
こういう事を言うておる姿から、私がなかなか着地出来ず、中道を揺らぐという不安定な生き方をしているという事が、おわかり頂けたかと存じます。
「当たり前」を問うたからと言って、また戻ってもよい
ここで注意したい事が、「当たり前」を問うたからといって、「問われた側の考え方・思想・在り方・行動」を完全否定する事はない、ということです。もちろん、正すべき事であれば、修正して調えれば宜しかろうと存じます。
ただ、「当たり前を問う」というと、「今までは全部間違い!」と、全部が全部、短絡的に極から極へ突っ走ってしまう、という事に陥ってしまいかねません。
そうではなく、当たり前を問うて、「うしろめたさの人類学」の言葉を借りれば、「今までの境界線から意図的にずれて、越境行為を経験する」という過程を経て、それでも戻る方がよいと言うならば、戻っても宜しかろうと存じます。
一度「当たり前」を問うてみて、問うた「当たり前」に戻るもよし。
問うた先にある、全く別の場所に進むもよし。
ここで肝要は、「当たり前」を一旦問い、新しい経験をしたり、振り幅を知ってから戻っている、という経緯があるところです。
ただ流されるだけ、無自覚に「当たり前」に居続けるのではなく、360度回ってみたけれども、最初の地点が最も宜しいから、自覚的に着地する、と言うと、わかりやすいでしょうか。
この経緯を体験して振り幅を広げている事が、寛容さ・寛大さにも繋がりましょうし、自身のフィルターを知った上での選択と、自身の責任も自覚できる事でありましょう。
仏教・宗教から「当たり前」を問う
今回は、松村圭一郎さん著「うしろめたさの人類学」を読み、私が学び気づいた事や、そこから考えた事と共に、読書感想文をお送り致しました。この本が、自身のモヤモヤした感じや、なんとなく居心地が悪い感じ、よくわからない「うしろめたさ」的な何かを観じる人にとっては、光を見出すきっかけとなるやもしれません。
また、自身の「当たり前」を問い、自身のフィルターを知るという体験をされる方も、いらっしゃいましょう。
著者である松村圭一郎さんは、フィールドワーク・研究のため、日本とエチオピアを往復する生活をされているそうです。
そのために、肌で「当たり前を問う」という事を体験されているのだろうなあ、と、私は想像するところに御座います。
勝手な想像ではありますがね。
自身の当たり前を、他者の振る舞いから問うてみる。
松村圭一郎さんの場合は、エチオピアと日本の往復によって、自然とそれが為される環境にあるという見方が出来ます。
ただ、「では自分も自分に揺さぶりをかけるために」と、いきなり真似をするのも、出来るならばよいでしょうが、なかなかそうはいかない、という事情の人の方が多いのでは無かろうかと存じます。
その場合、「じゃあ、当たり前を問うって、なかなか難しいのではなかろうか?」「そういうきっかけってなかなかなさそうな。」と、思うところで御座いましょう。
気軽に旅行に行ったり、自身の住まう社会とは全く別の価値体系へ物理的移動が可能であることに越したことはありませんが、物理的制約により、確かに難しい面も御座いましょう。
そこで、「社会の価値観・社会通念とは異なる価値観・価値体系に触れてみる」というのは、一つの方法ではなかろうかと存じます。
実際に私が行じている事柄をお伝えしますと、仏教であったり、宗教体系に触れてみる、ということです。
そして、これが現代社会で宗教を学ぶ意義であり、宗教の役割の一つでは無いか、という事を、「うしろめたさの人類学」を読了し、改めて考えた事に御座います。
この辺りの話は、「100分de名著:歎異抄」や、「100分de名著:維摩経」等、釈徹宗さんの本で、何度か語られている事柄でも御座います。
参照記事:「「100分de名著:維摩経」総集編|まとめページ」
参照記事2:「100分de名著:維摩経で学んだ事と注意したい落とし穴|人にぶつけるものではない」
参照記事3:「第6回24時間不断念仏会in京都の清浄華院後編|悪人の自覚から逃れられぬ者を救う教え」
参照図書は、こちらです。
こちらは歎異抄です。
あ、もちろん、強制は致しませんし、勧誘でもありませんからね、これは。
宗教は「ヤバい」部分も多々御座いますし。
仏教・宗教は、社会のベクトルとは違うベクトルの価値体系が培われてきましたから、己を問うには有り難きところではあるのですがね。
ただし、触れる場合は慎重に。
触れるならば、まずは家の宗教を学ぶところから始める、出来れば祖父母や両親に家の宗教について一度話を聞いてみる、という辺りから始めるのが、暴走しにくい一つの方法かと存じます。
また、家が仏教の宗派で菩提寺があるならば、菩提寺のお坊さんや関係者に、一度話を聞いてみるのも宜しかろうと存じます。
他には、パワースポット(私はパワーレススポットという呼び方の方がしっくりきますが)に行って、宗教絵画や宗教美術に触れる、という事でも宜しいでしょう。
そこで、「これは社会的にみて、現代社会の価値体系において、合理的か不合理か、不合理なら何故こうして存在しているのか」と、問うてみるのも宜しかろうと存じます。
「宗教色のある事柄全般、ちょっと・・・」という場合でしたら、どうみても不合理である物事に当たってみたり、今まで経験していなかった事を体験をあえてしてみる、というのも、「当たり前」を問うきっかけとなり得るのではなかろうかと思います。
例えば、茶道や華道の経験がない人であるならば、茶道や華道の体験教室に行ってみる、というのも、一つの方法でありましょう。
文化的活動に触れてみるというのも、よろしゅおす。
座布団一枚とっても、普段何気なく使っている座布団にも、「正面と裏表がある」という事を知り、「なぜ、そうなっているのか」を問う事で、当たり前に使っていた座布団に対する価値観が揺さぶられる可能性もありましょうからね。
「坐る時に、体の下に敷けば用途を達する」という座布団に、何故、わざわざ正面や裏表があるのか、という問いから、自身を揺さぶってみる、という事です。
とにかく、「自身を揺さぶってみる」という事は、「当たり前」を問うきっかけとなります。
そうする事で、自身の価値観を観察・検討し、自身を問い、調える事にも繋がりましょう。
ちなみに、私の場合、中道的揺らぎや、揺さぶりの教えは、仏教・仏法から頂き続けております。
常に、ゆらゆらと、あーでもないこーでもないと、社会の価値体系と、仏法との間で揺らぎ続ける私。
だからこそ、「うしろめたさの人類学」を、私は大切な揺らぎの書として味わって頂けたのやもしれません。
合掌、礼拝