御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
あなたは「嘘も方便」という言い回しをご存じでしょうか。
相手にとって、事実とは違うけれども良い事に繋がるという場面で、「嘘も方便」という言葉が使われる傾向に御座います。
現在は、詐欺師や我利我利亡者が嘘をついて、人々から金品なり財をだまし取るときの口実にも使われているきらいがあります。
こういうのは、自己正当化のための、見苦しいわけです。
あなたも、ついつい嘘や冗談を言ったときに、「ほら、嘘も方便って言うじゃ無い」と、自己正当化するために、いやらしい使い方をしていませんかね。
「嘘も方便」とは言いますが、「方便」はもともと仏教用語でありまして、「嘘=方便」ではありません。
嘘と方便は違う、というのが、仏教者の自覚がある私の頂き方です。
今回は、「嘘も方便」という表現に対する私の持つ違和感から、嘘と方便の違いと、方便の用い方を、仏教視点で共に学んで行きましょう。
Contents
「嘘も方便」について:嘘と方便の違いを学ぶきっかけを下さったプラユキ・ナラテボーさんの説法
嘘と方便について、どうして今回、改めて問い直す事にしたのか。それは、プラユキ・ナラテボーさんの辻説法、辻ッターがきっかけです。
まずは、こちらをお読み下さいまし。
Q.方便の為とはいえ嘘をつくのは良くないのでしょうか?
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) 2017年4月4日
A.「嘘」になるか「方便」になるかの境界線は、意図的に相手に不利益を被らせるかどうか、という点。例えば、がん告知をしたら明らかに不安を抱え、病状が悪化する恐れのある人に対して、がんの告知をせずに元気づけるというのは「方便」。
また、過去の悲惨な出来事や他者による虐待等を苦しみの原因とみなす「トラウマ理論」や「AC理論」は事実とは異なる。が、極度の混乱や自虐状態にある人にとっては、そうした心理学的物語を与えられる方が、事実や正論を説かれるよりも明らかに苦を減らすのに効果的だ。ゆえにこれらも「方便」である
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) 2017年4月4日
善き言葉には、1「真実であること」2「相手を心地よくさせる」3「相手にとって有益である」という三つの側面がある。すべてが備わっていたら一番いいわけだが、そうでない場合に何を優先するかといったとき、仏教的にプライオリティが高いのは3番。すなわち相手の抜苦与楽に資する「有益性」である
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) 2017年4月4日
「有益性」というと、一般的な「ご利益」主義と混同されるかもしれないが、ここでいう「益」とは「抜苦与楽に至らしむ」「真理に導かれる」といった仏教的価値の達成という「益」である。特に相手がある場面では、真実性重視の発言(正論)より有益性優先の発言(方便)が功を奏することも多いだろう。
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) 2017年4月4日
はい、お帰りなさいまし。
プラユキ・ナラテボーさんの説法にて、嘘と方便の違いや、「嘘も方便」は早計な考え方であるという事を、学べます。
プラユキさんの辻説法を元に、この後の話を読んで頂ければ、より理解が深まり、事実をねじ曲げない生き方や、「不妄語戒」についても学べます。
方便についての物語:ゴータミーさんと釈尊(ゴータマ・ブッダ)のやり取り
「嘘も方便」や、方便について具体的に学ぶために、まずは仏教が説く「方便」について、学ぶ事に致しましょう。「方便(ほうべん)」とは、仏教においては法華経の「方便品(ほうべんびん)」にて、その有り様を知る事が出来ます。
また、具体的な方便の用い方として、息子を亡くしたゴータミーさんと釈尊(ゴータマ・ブッダ)とのやり取りや、燃える家宅から子供達を外へ出すために親父さんがやった事も、有名な話ですね。
今回は、息子を亡くしたゴータミーさんと釈尊との内容を、紹介しておきましょう。
ゴータミーさんという女性は、生まれた息子さんがいらっしゃったのですが、息子は幼くして他界します。
愛別離苦に囚われたゴータミーさんは、息子は病気名だけで目を覚ます、と信じて疑いません。
そこに、釈尊(ブッダ)との御縁があり、「息子を生き返らせて下さい」と釈尊にお願いします。
そこで釈尊は「よろしい、では、誰も死者を出さなかった家から、芥子の実を貰ってきたら、生き返らせてあげますよ。」と言います。
ゴータミーさんは、誰も死者を出さなかった家から芥子の実を貰おうとしますが、そのような家は一軒もなく、やがて、愛別離苦を受け止めるに到ります。
かなり端折っておりますが、簡単に言うと、こういう内容の話です。
この話を元に、方便について、次の項目で解説致します。
方便は「対機説法」「応病与薬」「相手の抜苦世楽」が前提としてある事で、単純に「嘘=方便」ではない
この、ゴータミーさんと釈尊とのやり取りの中で用いられた、方便について。釈尊は、人を生き返らせることが出来るわけではありません。
しかし、ゴータミーさんには「条件を満たしたら、生き返らせてあげますよ」的な事を仰っています。
それで、ゴータミーさんは希望の光を見て、家々を訪ね歩くわけです。
ここで見逃してはいけないことは、釈尊は「諸行無常、愛別離苦は誰しもあるものだ」とか「死者は蘇らぬ」と、いきなり「正論」で諭してはいないところです。
釈尊は、正論で諭したところで、きっと受け入れられないだろうと、看破されていたのでしょう。
そこで、諸行無常なる娑婆世界の理や、人には愛別離苦があるのだという事を受け容れられるように、回りくどいと知りながらも「方便」を用いた、と私は味わっております。
それも、ゴータミーさんが、きちんとその事を受け容れ、悟る事が出来るような方便を「対機説法」を前提とした方便を用いたのだと、私は解釈しております。(ちなみに、「解釈」も仏教用語です。)
仏教が説く「方便」は、相手に応じて教えを説く「対機説法」を前提としています。
釈尊は、ゴータミーさんとは別の苦を抱えている人には、その人が悟ったり、その人にとって応病与薬となる説法をされたことでしょう。
人は、受け取る力や受け取り方も違うものです。
個別性を考慮して、相手に応じて教理や仏法を無理に押しつけるのではなく、「自らに由りて悟る、自らによりて抜苦世楽へ繋がっていく」という方向性を持っているのが「方便」です。
我利のために嘘をついて騙す事を正当化するのが、方便ではありません。
相手の抜苦世楽のために応病与薬として方便を用いる場合、時として事実とは離れたことを申し上げなくてはいけない事も御座いましょう。
でも、それは相手の利益(りやく)となる抜苦世楽のためである、と言う事が前提としてあります。
「嘘=方便」ではなく、相手の抜苦世楽・利益となるために導く言説が「方便」である。
このように捉えて頂ければ宜しいかと存じます。

方便を用いる場合、方便を用いる側は責任を持つこと:「業を引き受ける事」が大切
嘘と方便はイコールではない、と言う事を、仏教視点で学んだところで。では、「だったら、事実ではなくても、回りくどくても、相手の抜苦世楽や利益になるなら、方便はいくら用いても良いんだ」と思われたら、ちょいとお待ちを。
相手に大切な事であったり、後々に利益(りやく)となったり、苦を抜き楽を享受して頂ける事になるとしても、方便だから何でも良い、というわけではありません。
時には、こちらが「方便」として用いた言説によって、その方便を実践中の相手が、途中経過においては傷つき苦しむ事もありましょう。
そんな時、相手が到達する事になる地点、抜苦世楽が成された地点へ行くまでの間に、方便を用いた側も責任を持たねばならない、私はそのように考えております。
言を発した以上、その発した者としての責任を取らねばならないことは、社会通念としても、必然としてあるのは、理解して頂けるかと存じます。
「覆水盆に返らず」とはよくいったもので、言葉を発した業そのものは、決して消せるものでは御座いません。
その事を踏まえて、方便を用いた側も、方便を相手に発した以上、その「業(ごう)」は、背負う事になります。
間違っても、詐欺師や我利我利亡者が自己正当化と逃げる言い訳として大好きな「あなた次第」で、逃げる事は出来ないのです。
方便を用いる側も、責任が伴いますし、「口業(くごう)」を背負わねばなりません。
ゆえに、「方便は自覚的かつ相応の覚悟が必要」なので御座います。
軽々しく「嘘も方便」なんて言えないし、「嘘=方便」という図式が早計であると思うのは、このことに由来します。

事実と違うことを伝える場合は「不妄語戒」を破ることになる
方便を用いる事は、方便を用いる側としての自覚と覚悟を持つ事が肝要である、という話について、もう一つ重要な話をしておきます。あなたが仏教徒ではなくても、知っておいて欲しいことです。
仏教徒・仏教者としての自覚があるならば、なおのこと大切な事柄に御座います。
方便を用いる時、事実と異なること、現象している事と全く違う事を、相手に伝える事になることだってあります。
それゆえに「嘘も方便」と言われる言葉のさすらいもあったのでありましょう。
相手にとって抜苦世楽、利益となる導きとなっても、「業は消えない」という話を致しました。
これは、「結果として相手の抜苦世楽となっても、方便とはいえ、事実と異なることを申した」という事も、また消えない業としてあるわけです。
仏教では、在家仏教者も守る戒に「不妄語戒」が御座います。
不妄語戒とは、わかりやすくいうと「嘘をつかない」という戒めです。
方便を用いる際、時として事実とは異なることを言わなければならない場合、この「不妄語戒」を破ることになります。
どうしても不妄語戒を破らなければならない場面も、生きていれば出くわす事もありましょう。
その時に、我利ではなく、相手の利益や抜苦世楽になるかどうかを慎重に見極めて、方便を用いる、この過程が重要です。
そしてその場合も、極力、事実と異なるように言わないようにする事。
「相手を惑わせせない、妄念を抱かせない」というのも、不妄語戒である、という解釈をするならば、相手を惑わし妄念を抱かせる事の無いように気をつける事。
方便を用いた以上は、方便を用いたという業と、もしも導くためとはいえ、多少なりとも「不妄語戒」を破った自覚があるならば、その業をきちんと背負いきる事。(破らない事が前提)
方便を用いる時に迫られた場合、この自覚と業を背負う責任感が肝要であろうと、私は頂いております。

方便の用い方、付き合い方は、私はこのようにしております
最後に、ここまで「嘘も方便」から、嘘と方便の違いと、方便を用いる側の自覚について学んだところで、方便との距離感なり用い方について、お伝え致します。あくまで私の場合ではありますが。
まず、私は仏教者の自覚があるということもありますが、基本的には在家も守る戒律や、法然上人の御教えを大切にしております。
ゆえに、まずは「不妄語戒」が先行します。
その上で、正論ではなく方便が必要であると言う場合に迫られた時のみ方便をもちいる、ということにしております。
この辺り、プラユキ・ナラテボーさんが説いて下さっている「「嘘」になるか「方便」になるかの境界線」の話が、智慧となって下さいます。
また、プラユキ・ナラテボーさんの「戒律が守って下さる、戒律があるからこそ自由である」という話に通じます。
戒律や、善知識の御教えがあるからこそ、優先順位も明確に出来ていますからね。
それに、戒律を守りながらも、いかに相手の抜苦与楽なる方便にて導けるか、と言う事も、常に意識させて頂けるわけですから、有り難い事無上なり。
今回の話を参考にして、単なる我利我利亡者な嘘つきにならず、相手を慮った方便を用いる智慧を育んで頂けましたら、嬉しゅう御座います。
合掌、礼拝