御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
あなたは、ボランティア活動をした経験をお持ちでしょうか。
ボランティアと言いますと、現代社会においては、無料奉仕の同義語として捉えられがちですが、本来の意味は「ある事柄に志願して携わること」です。
ようするに、自主的な奉仕活動ということですね。
ボランティア活動の強制であったり、「会社命令のボランティア」と言うものは、言葉の定義としても在り方としても、問い直すべきであると、私は観ております。
命令って、志願とは全然違うでしょうに。
間違っても、「サービス残業はボランティア精神を持ってすべきだ」なんていうのは、最早「お前は何を言っているんだ?」というレベルですからね。
そもそも、サービスは無料奉仕という意味ではありませんから、そこら辺りの定義からやり直さないといけません。
今回は、ボランティアや、ボランティア活動について、言葉の定義を議論したいわけではありません。
私もボランティアの経験や、その会合に出席したことがあるのですが、そのような経験・体験を経て、感じたり考えた事が御座いまして。
今後、あなたがボランティア活動をする際、は、読んでおくべき事を、この機会に伝えておきます。
また、就職活動などでボランティア活動をしていた事を自慢する事が目的で始める人には、仏教者としては、それ自体を戒めるところではありますが、活用出来る話にもなりましょう。
自慢目的でボランティア活動をするな、とは言いませんが、自己の在り方は一度顧みましょう、と提言は致しますがね。
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二つのボランティア活動体験:ある団体の説明会と会議にて
私は、学生に特別養護老人ホームで、何度かボランティア活動をした経験が御座います。その当時は、奉仕活動を志願するという、志願者の気持ちや在り方も、もちろんあったのですけれども、邪な、言うなれば「雑毒の善」も御座いました。
「雑毒の善」とは、煩悩の混じった善行の事です。
申し訳ありません、冒頭で偉そうなことを言うておりましたが、ちゃっかり就職活動のネタになれば、という事も念頭に御座いました。
まさに自己都合であり、真宗・浄土真宗、親鸞聖人が説かれる「雑毒の善」に他ならない部分も御座いました。
もっとも、人には自己の利となる都合であったり、どのような善行にも煩悩が多かれ少なかれ混じっているという内省の目を持つ事が、肝要です。
それに、雑毒の善から始める善行も、人の苦を緩和させる結果を伴うのであれば、少なくとも現代社会においては悪とは思いませんし。
仏教の視点、宗教的視点を持って内省しつつ、それでも小罪を犯さじと思うべし、雑毒の善を意識すべし、という地黄を誤魔化さない事を大切にしたいところであります、と、反省する今日この頃に御座います。
前置きが長くなりましたが、そんなこんなで、学生時代には特別養護老人ホームでのボランティア活動をしておりまして、学生を終えてからは、車いす修理ボランティアの説明会にも参加した事が御座います。
今回は、車いす修理ボランティア活動の説明会で、思った事や感じた事、そして、学んだ事についてお話し致しましょう。
車いす修理ボランティア活動の説明会では、実際に車いすのパンクを修理する際に、タイヤの取り外し方と付け方の実習が御座いまして、私もさせて頂きました。
それは最初の方に行われて、その後は座談的な会議に移りましてね。
そこで、一番話し合われたことって、何だと思われますか?
「どのように、参加者を増やして、社会貢献をして頂く人を増やすか」だとか、上で話したような、雑毒の善ではなくて純粋な奉仕精神を養おう、という話だと思います?
実は、一番話し合われた事は、「お金にまつわる事柄」です。
その車いす修理ボランティア活動では、修理に使う道具も御座います。
そうなってくると、当然そのための道具であったり、消耗品も必要になるわけです。
そうしたら、どのようにそれらを調達するか、人件費はどうするか、やはり無料奉仕では限界があるから、お金を徴収したり、利用者にもある程度負担して頂くべきか、等と、そのような話になっていきました。

ボランティア活動でお金の話をする事はタブーではない:むしろ大切な事
当時の私は、まだ仏教と再会する前でしたが、仏教と再会し、仏法を学び続けている今の私でも、こう思う、という事が御座います。当時、ボランティア活動の会合にて、お金にまつわる話が一番されていたという現場に遭遇して、一体何を思い、何を考え、そこから学んだか。
「大人の世界は汚い、ボランティア活動といっても、やはりお金か。」
「奉仕精神はどこへいった、それで何がボランティア活動か!」
このような事を考えたかと言うと、全く違います。
「確かに、ボランティア活動をするにしても、活動資金は必要だ。ボランティア精神、つまり奉仕精神を持ってして、お金についても無視せずに活動する事、それがボランティア活動ではなかろうか。」
このような事を考えた次第で御座います。
だって、今回の事例は車いすの修理ボランティア活動ですから、活動するとなると、どうしても消耗品や道具が必要です。
そして、耐久的な道具も、手入れ・面天安スをしないといけませんし、場合によっては買い換えないといけません。
私は、機械工具の世界におりましたから知識としてありますが、ドライバーなどの工具は、摩耗していくのですよ。
だから、研磨したり買い換える必要が出て来ます。
機械工具をお客様にお届けしていたときは、本来は耐久消費財的な工具も、消耗品であるかの如く、お客様にお買い上げ頂いておりましたからね。
ドリルやエンドミルも、しょっちゅう研磨の注文をして頂いておりましたし。
そうなってくると、やはりそのための費用も加算できます。
それを、気持ちだの奉仕精神だけで、どうやって賄うというのでしょう。
もちろん、奉仕精神、ボランティアの精神性は大切にしたいことでありますし、無視出来ません。
そうではありますが、一方で、経済的な側面や実用面も、無視しては成り立たないものです。
私は、車いす修理ボランティアの会合にて、その事を学ぶ御縁を頂きました。
そしてそこから、ボランティア活動においてお金の話をすることは、タブー視するようなことではなくて、むしろ避けては通れない大切な事柄である、とも頂いております。
ボランティア活動で必要な事で、尚且つ重宝する能力は「集財力(要するに集金力)」や経済力
以上の事を踏まえて、私はボランティア活動をする際、必要かつ重宝する能力は、「集財力」「経済力」である、と、現段階では考えております。「え、仏教徒なのに、そんな俗世まみれ煩悩まみれなことを」と、思われるかも知れません。
仏教徒・仏教者で宗教者なら、一番大切な能力や考えるべき事は、奉仕精神などのパトス(精神性)ではなかろうか、と思う人がいるのも、まあ、わかります。
上でお伝えしておりますように、私は、仏教が絶対的に金銭の話・財の話をしてはいけない、財の話はタブーだだ、という固定観念自体、どうかと思いますがね。
そもそも、現代社会でお寺再興であったり、寺院を切り盛りする時に、財については考えなければならないし、切っても切れない概念ですから。
例えば、真宗再興の祖と言われている、蓮如上人は、経営者としての姿を見る人もいらっしゃいます。
蓮如上人は、室町時代に衰退していた真宗寺院を再興し、そのお子さん方も幾人かが幾つかのお寺を再興しています。
お寺再興には、莫大な資金・財力が必要でありますし、それを為したと言う事は、それだけの経済観念と、人を集める能力であったり、集財力・集金力がなければなりますまい。
そのような背景を考えると、蓮如上人の経営者像、経営者としての姿を見出す人も、頷ける話です。
もちろん、お金は概念であり、その概念に振り回されたり執着する事には、注意せんといけませんが。
それを踏まえた上で、私は、ボランティア活動において、ボランティア組織に属する場合に重宝される能力は、集財力(集金力)と経済力、更に人を集める力(集客力も含めて)もあり、と考えております。
だって、ボランティア活動をするということそのものに、結構お金がかかりますからね。
例えば、何かの自然猛威が発生した後に、現地でボランティア活動をする場合、その間の生活費はどうするんです?
その場合、初期状態では経済力が豊富である方が、活動期間も長くなりますし、身動きも取りやすい事でありましょう。
また、例えば冬場に活動する場合、被災された方々へ暖房を送ったり持っていこうという場合、やはり財力が必要になってきます。
自分の車を使って運ぼうとする際には、燃料費も必要でしょう。
それに、募金活動的な事においても、集客力や集財力であったり、出資してくれる人を探して募るという活動をするならば、これまた集客力と集財力(集金力)が重宝します。
人員確保であったり、もっと多くの人に助けを求める場合、言いぐさは宜しくないかも知れませんが、集客力は役に立つ事もありましょう。
客、という言い方が宜しくなければ、人を募る、人を集める力、と致しましょうか。
もちろん、真っ当なやり方で、王法(娑婆世界の法律のこと、ここでは日本の法律と考えて頂ければ宜しいかと)に触れないように、公正である事ははずせませんがね、そこは必然の事として。
ボランティア活動をすると言う名目で、詐欺行為に及ぶなどと言うのは論外です。
ボランティア団体活動においても、個人で現地へ向かう、または離れたところから支援するにしても、必要かつ重宝がられる、重宝するのは、財力・経済力であったり、集財力(集金力)や集客力だったりするのです。
素人が現地に行っても足手まといになるだけだ、という自覚があっても、経済力があれば、募金したり寄付したりと、それもボランティア活動・奉仕活動の一環です。
それを実現する際にも、やはり集財力と経済力は、直結する能力でありましょう。
ボランティア活動における活動資金諸々の現実的なことを考慮すれば、どうしたってお金はかかりる事が見えてきます。
その現実は無視出来ませんから、そのような事情から、ボランティア活動において必要であり、尚且つ重宝する・重宝がられる能力は、初期値が高い経済力と、集財力・集金力であろうと、私は考えております。

ボランティア活動をするくらいだから奉仕精神があるのは言うまでも無し。だからこそ伝えたいこと
ボランティア活動をする場合、奉仕精神が大切だ、という事をよく言われます。奉仕精神を養うために、ボランティア活動を強制する、等という、笑えない事態もあるという話を、聞いた事もありますし。
ボランティア活動強制とは、なんとも笑えない、「志願」という概念はどこへいったんだろう、と、突っ込みたくなるところで御座います。
また、就職活動で私も見聞きした文言ですが、面接で受けを良くするために、ボランティア活動を自慢して、そこで奉仕精神を養った、その大切さを知った、と、言う学生さんもいたものです。
それはそれで大切な事ですから、無下に否定は致しません。
否定は致しませんが、「雑毒の善」であったり、就職活動で有利にするために利用した、という部分も、煩悩具足なる私は勘ぐるところであります。
雑毒の善でも、その善行によって救われる人がいたのであれば、それは大いに結構、雑毒の善でも、人を救う・人を助けたという業は、良き宿業となり得ましょう。
ただ、私は、ボランティア活動という業(行為)を、わざわざ実践したという事は、たとえ雑毒の善であったり、我利があったとしても、奉仕精神も多かれ少なかれあるからだ、と観ております。
ゆえに、奉仕精神について、わざわざ強調することもありますまい。
「ボランティア活動したという事実そのものには、多少なりとも奉仕精神が備わっていたから」と、きちんと観るべきですし、そこまで考慮出来ない輩は、洞察力が無く、面接官をやってはいけません。
奉仕精神そのものが無ければ、ボランティア活動という概念そのものに到達しませんし。
それを踏まえた上で、その奉仕精神を大切にした上で、詐欺をしない・真っ当なやり方でという事は当然のこととして、「集財」と「経済力・経済観念」も、持って置く事が、ボランティア活動においては肝要ではなかろうかと存じます。
私が面接官でしたら、ボランティア活動をしたという学生さんに、「そこで何を学びましたかね。」と、尋ねた場合、このように答えられたら、「お。」と思いますがね。
「私は、ボランティア活動において、活動するには資金がどうしても必要になってきますから、経済観念の大切さと、集財力(集金力)の大切さを学びました。」
企業活動は、どうしてもビジネスビジネスしている現場が多々御座いますから、企業に就職する場合、集財と経済観念という観念・概念を肌で学んで来た人は、力になってくれそうですからね。
ただし、面接官との相性もありましょうし、お金お金というゴリゴリした話を嫌う面接官の場合は、落選の確率を高めるだけでしょうけれども。
もっとも、そういう考え方で、よく企業人がつとまるわな、と思うところでありますがね。
精神性も大切、でも、企業でお勤めなら、やはりお金の話も疎かには出来ないはずですから。
合掌、礼拝