次の一歩を智慧によりて良き縁となる方へ踏み出す|歩行瞑想の教えが繋がった

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



先日、怒りを覚える出来事と縁があり、そこで気づいて新たなる縁とは良き縁となれた話を致しました。
私に怒りを覚えさせるようなことを為した人とその行為は、悪縁と言えたかもしれません。

私はその悪縁を悪縁のままつなげずに済み、その後に良き縁を頂けました。



プラユキ・ナラテボーさんは、「良き縁に会い、良き縁となし、良き縁となる」と伝えて下さいます。

私は前回話した体験から、智慧と慈悲の実践により、悪縁も良き縁に出来るかもしれんなあ、と朧気ながら考えるようになりまして。



そのような中、ふと、先日京都の町を歩いておる時に、「あ、そうか、あの時、悪縁らしきものに触れても、気づいて立ち止まる事ができたら、次の一歩で悪縁に触れても良き縁となる方へ踏み出すことは出来るのか。」ということを思いつきました。



次の一歩を良き縁となる方を向いて進める。

「気づけば、次の一歩を自由(自らに由る)に決めることが出来る」

これは、プラユキ・ナラテボーさんが歩行瞑想を伝導される際に、いつも教えて下さる文言に御座います。

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悪縁や嫌だと感じる行為、怒りを覚える事柄と縁結ばれたら

娑婆世界を生きておると、自身の力や意思ではどうしようもなく、嫌なこととも出逢いましょう。

それによって、沸点を超えて怒りが爆発することもあるかと存じます。

実際、私も「むきゃー!」と物を投げて壊してしまったこともありますし。



ただ、仏教と再会して、瞑想なりお念仏、お坊さんから色々と教わる中で、「あ、今怒りが起こっておる」と、気づく事も出てくるようになりました。

怒りに気づいたり、爆発しそうなところをなんとか留める智慧であったり、現在はアンガーマネジメントと呼ばれる手法で上手にいなせる技も伝えられております。



私も、怒りを覚える出来事をつぶやいたときに、浄土宗のお寺さんで共に仏教を学ぶ御縁のある方に、僧侶から教わった話を伝えて頂いてたものです。

6秒ルールというやつを教わりましたが、私なら「むきゃー!」となった時、十念唱えると6秒は確実に経過するでしょうから、「怒り→十念」というスイッチを確立すれば、爆発する確率を低めることが出来そうです。



各々のアンガーマネジメントは、各々で確立して頂くとして。
(十念がいいという人は十念して頂き、共にお念仏する御縁になれば嬉しゅう御座います。)



怒りを覚える出来事と遭遇したら、前回もお伝えしたように、まずは一旦「気づいて止まる」という事が肝要では無いかと存じます。

最初はなかなか難しいところもあるかとは存じますが、気づいて止まるタイミングを爆発する手前に持ってくることを、普段から気づく訓練をして養うと良いかと思うところに御座います。

これは、私の戒め、私もやっていこうという自身への言葉でもあるのですがね。

気づけば怒りや苦を「事実」と「自身が勝手に想像したこと」に分析出来る

怒りや苦に気づいて、立ち止まることが出来たら、以前の記事でお伝えしたように、「事実」と「自身が勝手に想像したこと、妄想や妄念」に分けて考える、分析する事ができます。



この事については、私が再度申し上げるよりも、的確かつわかりやすく伝えて下さるつぶやきがありまして。





天狗堂通信さんが以前の話を読んで下さり、「事実」「自身の勝手な想像」の分析という事柄について、更に詳しく丁寧に教えて下さいました。

この場をお借りしまして、厚く御礼申し上げます、有り難う御座います。



起こった出来事、実際に現象した「事実」は、天狗堂通信さんが仰る通りに、法であったり事実に応対する形で的確な対処をする。

怪我をしたら病院へ行って適切な処置をするように。



「自分が勝手に想像した思い込み」や「妄想・妄念」の対処法については、上述の天狗堂通信さんのつぶやきが、対処する智慧となりましょう。

人である以上、どうしても妄想したり思い込み、勝手に想像してしまうことはありましょう。

肝要は、それに飲み込まれるのではなく、気づいて一旦立ち止まり、自覚し修正という天狗堂通信さんの教えの実践ではなかろうかと存じます。

私自身、まだまだ飲み込まれて妄念を増幅させてしまうことしばしばゆえに、改めて己を省み、日々為して行く事を心がける次第で御座います。

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気づいたら「良き縁」となるか「悪縁」となるか、次の一歩をを自由(自らに由る)て決める事ができる

自身の怒りに気づいて立ち止まることが出来たら、上述の対処が出来るようにもなってきましょう。

怒りに気づいたら、その怒りを分析・解析して、智慧にすることが出来る事は、私も体験から体感する事となりました。



参照記事:「怒りを智慧に変えるプラユキ・ナラテボーさんから教わったことの実践|反面教師として活かす」



そして、ここからがプラユキ・ナラテボーさんから教わった事柄に繋がっていきます。



相手から嫌な思いをして、それによって怒りを覚えた場合、怒りをもってやり返すことも出来たでしょう。



そこで、「あ、今自身はこれこれこういうことで怒りを覚えている」と気づいたら、次の一歩を、次の一手を、自由に(自らに由る)決めることが出来ます。



これは、プラユキ・ナラテボーさんが歩行瞑想を伝えて下さるときに、教えて下さった事であり、瞑想会に参加された方ならば、「私も教わりました」という方もいらっしゃるかと存じます。



飲み込まれずに気づくと、次の一歩をどの方へ向けて進めるか、自らに由りて決めることが出来る。

今回の話でしたら、怒りに気づいた後、どの方向へ向けて自身が行動するか、ということです。

そのまま「んだらー!」と反撃するか、暴力に訴えるか。

前回の私が実践したように、怒りを分析して智慧に変換し、智慧をもって実践するか。



次の一歩を、良き縁となる方へ向けて踏み出すか、悪縁となる方へ踏み出すか。



もちろん、良き縁となる方向だと思ったところが、本当に良き縁と道であったかどうかは、結果を見るまではわからないということはありましょう。

何が良いかというのは、人によって違いますからね。

ただそれでも、暴力を振るうなどの社会的にも明らかに悪縁となりそうなことは避けられるのではなかろうかと、私は思うのであります。



気づきの智慧が育てば、怒りを智慧に変換できて、それを元に次の一歩を自由に決められて、「良き縁」となる方へ歩を進める事ができる。



プラユキ・ナラテボーさんから教わった事が、繋がったと思うたことに御座います。



合掌、礼拝

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