プラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会in京都|善友との善き縁と自己牢獄から一歩脱するヒント

御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。



2017年10月22日(日)、台風と大雨が近づいている中、私はプラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会in京都に参加させて頂いて参りました。


プラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会、マインドフルネス瞑想会へ、定期的に通うようになってきた今日この頃。

私は普段から、瞑想・マインドフルネスについてお伝えするとき、必ずと言ってよい程の頻度で、申し上げている事が御座います。



「坐禅や瞑想、マインドフルネスの実践は、一度は指導者・伝導者の元できちんと学び、出来る事なら、定期的に通っていく事が望ましい。」



このように申し上げている手前、言うておる私がやらんと、それこそ、ひろさちやさんが仰るように、「ゆーばかり(言うばかり)」となり、「お前が言うな案件」になりますからね。

また、私自身、新しく本や仏教の本を読み新しく学びつつ、教わった実践方法を毎日行じておるわけですが、道を外れていたり、修正すべき事柄も点検するために、こういう瞑想会をはじめ、参加するようにしております。



と、言うわけで、今回は「プラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会in京都」について、レポート的な感想文を綴って参ります。



例によって、注意点をば。



いつものように、今回の瞑想会の内容についても、事務的な話や何をしてきたかの紹介、御法話を頂いた事によって私自身が学び気づき等の話が中心としております。

対話・シェアタイムもあったのですが、参加された善友のプライベートな話や、個別的な内容は一切ここでは話しませんがゆえに、そこはご了承頂ければと存じます。

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プラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会in京都:瞑想会の内容

結構な雨の中、まだ風が強くない2017年10月22日(日)の昼頃、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会in京都に参加するために、歩いて会場へ。

開始15分前に到着し、13:00から開始しました。



前半は、プラユキ・ナラテボーさんの御法話です。



今回のテーマは、「善友と善き縁」と、「方便」について。



「善友」については、「善き縁に触れ、善き縁となし、善き縁となる」という、プラユキ・ナラテボーさんが本や御法話・瞑想会で、よく伝えられている話と絡めて、伝えて下さいました。

今回の「善き縁」の話は、大雑把にまとめると、「善き縁に触れる、という事は、善友に触れる・善友を得る」ということです。



続いて、「善友」の資質や、善友になる過程・プロセス、その際の要となる「七具足」についても、話をして下さいました。

この辺りで、「如理作意」等の話も出て来ておりまして、更に詳しく学びたい人ならば、パユットー師の「仏法」で、復習する事が出来ます。





紙媒体の本はこちらです。




紙媒体の方が高く、電子書籍版の方が安く手に入りますし、私はKindleの電子書籍で手に入れて読んでおります。

ただ、魚川祐司さんの「自由への旅」の如く、PDFや電子書籍でも持っているけれど、紙媒体でも読みたいと思うに至った名著は、買うようにしておりますがね。

恐らくいずれ、購入する可能性が高い本です、私にとって「仏法」という本は。



「方便」については、以前にプラユキ・ナラテボーさんがTwitter法話・辻ッター(Twitterの辻説法)にて話された事柄を、復習するような形であります。

この「方便」について、私もプラユキ・ナラテボーさんの辻ッターに乗っかる形で、一筆したためておりました。

参照記事:「「嘘も方便」とは言うけれど、「嘘」と「方便」は違います」



私も以前に話しましたし、プラユキ・ナラテボーさんも、方便は嘘を肯定すると言いますか、嘘をつくことの言い訳ではない、という趣旨の話をして下さっています。

プラユキさんのTwitterの過去ログを見て頂ければわかりますが、方便とは「その場しのぎの嘘っぱち」ではない、と、明言されています。


自分を良く見せようとする我利我利した妄語・妄言は「嘘」であり、自他の抜苦与楽となる、真実に導くための、言うなれば補助的な役割を担うのが「方便」、というところでありましょうか。

私はそこに加える形で、「方便を用いる者は、用いる者の業と責任を背負う・担う事になる」と、付け加えております。

ゆえに、無自覚・無責任に妄語(単なる我利我利な嘘っぱち)を方便と抜かして、それを積み重ねると、閻魔大王のもとへ、地獄まっしぐらであると、私は考えております。



「善友と善き縁」「方便」の話が終わった後は、休憩を挟んで手動瞑想と歩行瞑想の実践。



終わってから、対話・シェアタイムとなり、時間が来て終了。



プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会は、懇親会を入れて下さる事が多々あるのですが、今回は台風が来ていて、交通の事もありまして、シェアタイム終了後、解散となりました。

善き縁に触れ、善き縁をなし、善き縁となる:善き縁に触れる事と順番も大切ではなかろうかと思うた

プラユキ・ナラテボーさんは、今回、「善友」について解説して下さいました。



「善友」については、以前からプラユキさんの本やTwitterでの話、また、「仏法」を予習したことで、言葉と概念は、こういう感じかな、というくらいには知っておりました。

ただ、言葉を知っているだけというレベルであり、今回改めて、直接「善友」について御法話頂ける機会は、非常に有り難し、と思うたものです。



そして、「善友」の解説と共に、「善き縁」の話もして下さったのですが、その時に、「善き縁」の内容について、気づいた事が御座いまして。

私、「善き縁に触れ、善き縁となし、善き縁となる」と、プラユキ・ナラテボーさんから直接教わっておきながら、ここにきて、やっと気づきましてね。



私は、善き縁の順番、「触れ、為す、なる」の順番に、ピンっとくるものが御座いまして、ちょいと考察してみたのです。



「善き縁に触れる」は、「善友を得る、善友と触れる」という事でもあります。

ここで、次に「善き縁となす」という、「活動する、実践する」という過程が、「善き縁となる」の前にあることを、見逃せませんでして。



確かに、「薫習(くんじゅう)」という教えもありますし、「朱に染まれば赤くなる」と言いますか、善友が集う僧伽(そうぎゃ:サンガ)にいると、自然と良き在り方が染みこんでくる事も御座いましょう。



しかし、「善き縁に触れ」た後に、「善き縁となる」ではなく、「善き縁となす」というのは、善き縁に触れて学んだ事や感じた事、教わった事を実践するという大切な過程では無かろうか、と、思うに至りました。

善友の縁・善き縁に触れて、ダイレクトに善き縁となったと錯覚する私の愚かさ

私は、今回の御法話にて、「善友の縁・善き縁に触れて、善き縁となし、善き縁となる」の、「善き縁となし」を、すっ飛ばしてきた事が多々あるなあ、と、顧みるに至りまして。

と、言いますのも。



私、Twitterで、「おお、いい話」だとか、共感出来る話、仏法を読むと、そのままリツイートまたは引用リツイートを致します。

また、本を読んで、「おお、これは」という教えとも出会う事が御座います。



その時、「善知識や善友、彼らの善き縁に触れ」までは良いのですが、そこで知った気になり、「私は善き縁に触れて善き縁となった」と、錯覚する事もしばしば御座います。

これはまさに、法然上人が一枚起請文にて「智者の振る舞いをせずして」と、戒めて下さっている事なのですが、愚人なる私は、ついついそこから離れてしまう凡夫という悲しき事。



確かに、善友・善き縁に触れて、善き縁となるセンスの持ち主もいらっしゃいましょう。

しかし、私という凡夫は、善き縁に触れたら、きちんと「善き縁となす」という、実践の過程を大切にしないと血肉となりませんし、「善き縁になった、私自身が善友となったのだ」と、錯覚しかねません。



今回のプラユキ・ナラテボーさんの対話と瞑想会にて、「善き縁に触れ」の次に、「善き縁となす」が「善き縁となる」の前にある、という、この順番を、改めて教わったお味わいに御座ります。

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気づきが間に合うと「自己牢獄」を超える一歩を踏み出せる

今回、別の気づきと言いますか、「ああ、なるほど」と思うた事は、他にも御座います。



今回は、外が雨でしたから、室内で歩行瞑想をしたのですが、その時に、今まで学んで来たことや実践してきた事、私の身に起こった事が、繋がった瞬間が御座いました。



歩行瞑想は、自身の一歩一歩に気づくという訓練で、動いている足・脚や、一歩一歩が気づきの印しです。

そして歩行瞑想の時に、プラユキ・ナラテボーさんが「気づきが間に合えば、次の一歩を自由に選択する事が出来る」という教えを頂いたときの事です。

(「気づきが間に合う」という事については、以前にお伝えした事が御座います。)



参照記事:「気づきが間に合う利益(りやく)や効果|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会で頂いた例え話の補足」

参照記事2:「丁寧な暮らしに繋がる「気づきが間に合う」という実体験の話|プラユキ・ナラテボーさんと浦崎雅代さんとホームさんからの教え」



私は、歩行瞑想中に「次の一歩を自由に、自分で選択出来る」という助言を頂くことは、これが初めでは御座いません。

しかし今回は、今回の歩行瞑想までに経験した事と、読んだ本と、プラユキ・ナラテボーさんの「気づきが間に合う事で、次の一歩を自由に選択出来る」という話が、一本の線に繋がったのです。



私は、一体何に気づいたかと申しますと。



「気づきが間に合う事により、自己牢獄を超える一歩を踏み出す事が出来る」



この事が、バチーンっと、何かこう、閃いたものでありまして。

サガシリーズがお好きな人ならば、技を閃いた時に、頭の辺りに電球が「ピコーン」とヒカル姿を知っていらっしゃるかと思いますが、あの状態が私に起こったのであります。



「自己牢獄」とは、無明から始まり、「反応」によってぐるぐると創り上げられた、先入観なり自動反応の事と言えば、わかりやすいでしょうか。

この「自己牢獄」については、こちらの本を読んで知った概念です。




そして、この「反応」が積み重なると、どんどんと自己牢獄が強化されていきます。

しかし、気づきの智慧を身につけ、気づきが間に合う事によって、「反応」から「対応」へ、次の一歩の方向は、「自己牢獄を脱する一歩」とする事が出来ます。



瞑想を訓練し、気づきの頻度と精度が上がれば、気づきが間に合いやすくなり、「反応」していた事に「対応」出来るようになり、次の一歩を「自己牢獄を超える一歩」となる歩みとなる。



このような事を、歩行瞑想の時に閃きました。



閃いた後は、再び、一歩一歩に丁寧に気づく行に戻りは致しましたがね。

プラユキ・ナラテボーさんの瞑想と対話の会in京都で、自己牢獄を超える一歩を体験した善友の報告も

今回のプラユキ・ナラテボーさんの対話と瞑想会にて、自己牢獄を超える、という事と、プラユキさんの教えが結びついた私。



そして、気づきが間に合って「反応」だった事から「対応」が出来るようになり、自己牢獄を超える体験を垣間見た善友も、幾人かいらっしゃいました。

対話・シェアタイムで、その話をして下さいまして、「ああ、私だけではなかったのであり、手動瞑想・歩行瞑想などの瞑想の効果を体験している人はいるのだなあ。」と、頂いたもので御座います。

冒頭でお伝えしました通り、個別的な話でありますから、詳しい内容までは申せませんが、確かに、気づきが間に合って、「反応」から「対応」へ変わった人は、実在します。



ちなみに、私の「反応」から「対応」の体験は、こちらにて。



参照記事:「「対応」に繋ぐ「反応しない練習」をする日々|英語で意味を紐解き日常で活かす具体例」



私の場合、「集中していたのに強制的に手を止められた」観じる仕事中に発生する案件に「反応」していたのが、抜苦与楽に繋がる「対応」に、一歩進める事が出来た、とまとめることが出来ましょう。

更に言うなら、「手を止められた」という現象に「反応」している自身に気づきが間に合い、「反応」して「自己牢獄」を強化せず、「対応」して「自己牢獄を超える一歩」を、踏んだ、といったところです。



私も善友の幾人かも、共通する体験をした、瞑想を行じ続けた事も要因であろうという、「気づきが間に合う事によって、自己牢獄を超える一歩を踏み出した」というお味わい。



もしも興味が沸いて、一度体験してみたいという方には、以前の体験談も、参考になりましょうかな。



参照記事:「四諦八正道を繰り返し聴聞す|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀前編」

参照記事2:「心が苦しい時のブッダの智慧|プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会in滋賀後編」

参照記事3:「マインドフルネス瞑想会体験感想文|プラユキ・ナラテボーさんの講座での気づき・2017春編」



「いきなりはちょっと・・・」という方は、本日の対話と瞑想の会で、善友が紹介して下さった本等から入る野も、宜しかろうと存じます。

瞑想会では、「脳と瞑想」を、紹介して下さいましてね、自然かつナイスな宣伝でしたよ。



参照記事:「「脳と瞑想」から「意味付けの中継地点」を学ぶ|自己啓発の不十分な点を補うプラユキ・ナラテボーさんと篠浦伸禎さんの良書」

参照記事2:「マインドフルネス瞑想をするなら読んでおきたい3冊の本」



もしも、あなたが今回の話でプラユキ・ナラテボーさんの瞑想会に興味を持たれて、瞑想会にてばったりと遭遇する機会が御座いましたら、嬉しゅう御座います。



さて、9月から週末は、なんだか仏事・仏教に関連する行事に参加し続けている気が致します今日この頃。



来週は、菩提寺で十夜法要・別時念仏会へ赴きまする。

南無阿弥陀仏。



合掌、礼拝

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